私が「相続裁判」で問い続けるもの

「なぜ、私を産んだの?」
多くの婚外子が、この問いを母親にする。
自分のこの世での居場所、存在そのもへの不安を
幼心にも感じるからである。
「あなたが欲しかったからよ」との一言を
心の底で密かに望みながら……。

しかし私は母に聞いたことはない。
その問いを母親にするには、母の置かれた
状態はあまりに過酷すぎたからにほかならない。

初めて戸籍を見た時の衝撃を、私は忘れること
はできない。
自分が婚外子であることも、その差別記載も既に知っていた。
にもかからわず、「国が私を差別している証明書」
である戸籍を目の当たりにして……。
だが私は、その衝撃を人には勿論、自分にさえ隠そうとした。
傷ついていないと思い込もうとした。
差別と正面から向きあうのが怖かったからだ。
その後、自分が生まれてしまった「言いわけ」「償い」を
探さなければならないという思いが、半ば強迫のように私に
つきまとうことになった。

そして母の死。
母の短い結婚生活で生まれた姉と3人暮らしだった私は、
母の相続人として、姉の二分の一の権利しかないと知らされた。
「母と私の親子の絆は、姉の半分ーーお前は二分の一の人間なのだ」
と国が私に告げていた。

母は、姉の父と離婚後に私の父と出会うが、父の離婚が成立
しなかったために、私は婚外子となった。
父の死の7ヶ月前再婚した二度目の妻は、父の臨終も葬儀も
知らせてはくれなかった。
父の一人息子の死の時も同様で、私とは仲が良かった兄の死も、
病気のお見舞いに行った時に、兄の姿な病室にないことで
初めて知った。

「それは当然のこと、婚外子は殺人犯と同じような加害者
なのだから」という調停委員。
私は相続差別の持つ意味の重さを、改めて思い知らされた。

1950年代から始まっている婚外子裁判は、全て敗訴。
日本は恥ずべき判決を下し続けていた。
勝敗は私個人の力を超えたところにある。
ただし、たとえ「恥ずべき判決の記録」に終わろうと、
声を挙げることは、この世に生まれてしまった私の唯一の
存在証明であり、「言いわけ」に違いなかった。
自分の命の否定は、母の生の否定でもある。
婚外子を差別する社会に生まれたことが不幸なのであり、
婚外子として生まれたことは不幸ではない。
それは単なる事実に過ぎない。
母に告げられなかった「生んでくれてありがとう」との
思いを私は裁判に託した。

しかし1993年6月23日、結果は誰一人予想だにしなかった
「(婚外子相続差別)違憲決定」だった。

婚外子差別は、家制度の確立した明治時代に、現在の
形で創り上げられた。
それ以前にはなかった法的差別は、今なお続く性的基準
の男女差を作り出した女性差別でもある。
戦前は「イエ」の跡継ぎのスペアとして、戦後は法律婚
の奨励のために。
戦前戦後を通して、婚外子は「イエ」の存続のために
巧みに利用され続けている。
人と人とが寄り添う「家族」というより、子育てや老人
介護等の服の場として必要な「イエ」を確保し、その
「イエ」を効率よく使って巨大化してきた国。

婚外子という「下」を敢えて作ることにより、法律婚が
守られているかの幻想が生まれる。
罪もない婚外子を差別し続けることでしか維持できない
法律婚、戸籍、「イエ」制度。
それは一体、誰の幸せのためにあるのだろうか。
戦後なくなったはずの「イエ」は、戸籍制度の中で、
今も強かに息づいている。
婚外子差別は、それを必要とするイエ・戸籍制度の
問題にほかならない。

同族差別とは、遺産相続の額の割合を諮る裁判ではなく、
婚外子を一人の人間と認めるか否か、罪のない人間を差別
してやっと維持可能な家制度を、なお存続させるかを問う
裁判だったのである。

    岩波書店『世界』1995年10月号に訂正、加筆

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