その古びたいすに、ベアテ・シロタ・ゴードン
(69)はこわごわと腰を下ろした。
87歳のチャールズ・ケーディスが
ちゃめっけたっぷりに言った。
「帰ったらマッカーサー夫人に言いつけてやる。
君が元帥のいすに座ったって」。
ベアテは子どものように心配そうな顔をした。
24日朝、二人は東京のお堀端にある
第一生命ビルの6階にいた。
日本を五年あまりにわたって統治した
ダグラス・マッカーサーの旧執務室である。
ベアテにとってマッカーサーは今も怖い存在だ。
彼の下で日本国憲法の草案と作った頃
ベアテは22歳だった。
1946年2月4日午前10時、連合国軍総司
令部(GHQ)民政局行政部のスタッフは、
民政局長のコートニー・ホイットニーに
召集された。
マッカーサーの執務室に近い小さな会議室だった。
行政部長のケーディス以下約20人の
末席に最年少のベアテもいた。
おはよう、と言ったあとホイットニーは、
ややおおげさな表現で命令を告げた。
「諸君は今は、憲法制定会議の一員だ」
ベアテは「びっくりしましたよ。
でも、軍では注文があればすぐやらなければ
ならないでしょ」とそのときの気持ちを思い出す。
ホイットニーは天皇制存続、
戦争放棄、封建制度廃止の「マッカーサー
三原則」を示し、極秘作業を命じた。
八つの委員会ができ、ベアテは
「人権に関する委員会」に入った。
同僚は55歳と47歳の二人の男性だった。
「あなたが女性の権利を書いたらどうですか」
と言われ、ベアテは喜んで承知した。
時間は切迫していた。
2月1日、毎日新聞が日本政府の憲法問題
調査委員会の「試案」をスクープした。
「天皇の統治権は不変」という見出し
の記事を見てGHQは危機感を抱く。
日本民主化の決め手として、早く
GHQ案を出さなければならない。
日本政府がまもなく正式に草案を
示すことになっていた。
ホイットニーは一週間で原案を
完成するよう命じた。
さっそく、ベアテは街に飛び出した。
行き先は図書館。
しかし、焼け跡の東京のどこにどんな
図書館があるか見当がつかない。
ジープの運転手に行き先は任せて三つほどの
図書館を回り、世界各国の憲法を借り出した。
「今でもどこに行ったのかわからないんです。
英文だからたぶん大学でしょうね」
集めた憲法文献は、引っ張りだこになった。
法律の専門家もいたが、突然、一国の憲法を
書けと言われ、みんなが手本を見たがった。
ベアテはタイプに向かい、各国の憲法から
学んだ考え方と、自らの理想とを練り上げた
草案を打ち込んでいった。
「妊婦は国の保護を援助を受けられる」
「私生児も法的差別をしてはならない」
など、女性の視点を生かした案文が
つむぎ出されていった。
だが、「妊婦及び授乳期の母親は,既婚,
未婚にかかわらず,国の保護及び,必要
とする援助を受けることができる」
という条項を始め,私生児への差別禁止、
児童の医療費無料など、ベアテが書いた
こまやかな案文は次々に不採用になる。
ケーディスたちは「民法に入れるべきだ」
という意見だった。
「でも憲法に入れておきたかった。
日本の男性に任せたらどうなるかわからない
と思った」
と、今、ベアテはいう。
「私,みんなの前で泣いちゃったんです。
とても心が痛かった」
GHQ案は命令から9日後の13日に
日本政府に示され、3月6日には政府の
「憲法改正草案要綱」が発表される。
ベアテの草案はGHQ内部のチェックで
文章も変わったが、そこに込めた精神は
「婚姻は、両性の合意のみに……」という
憲法24条の「男女同権条項」に生きた。
ベアテは5歳から15歳まで日本で暮らし、
日本語を自由に話す。
先進的な草案の背景には、その体験が
色濃く影を落としていた。
憲法記念日を前に、一人の女性起草者を通して
日本国憲法誕生を振り返る。(田中英也)
憲法草案作成の作業がはじまって四日目の
1946年2月7日、連合国総司令部(GHQ)
民政局は、各委員会が作った案文の検討
に入った。
ベアテ・シロタ・ゴードン(当時22)たち
三人の「人権委員会」は41条もの草案を
用意していた。
医学部出身の陸軍中佐ピーター・ルースト
(当時47)と,戦前慶応大で教えたハリー・
ワイルズ(当時55)の二人の同僚は女性の
権利を大幅に広げるベアテ案に賛成していた。
しかし草案をまとめるチャールズ・ケーディス
(当時40)ら三人のチェックは厳しかった。
ベアテの自信作は、「家庭は人類社会の
基礎で(中略)婚姻と家庭は法に保護される」
ではじまり,「個人の尊厳と両性の平等に
立った法律が制定されるべきである」で
結ぶ「男女同権条項」だった。
これは採用された。
3月4日から5日にかけて、GHQと日本政府が
政府案作成の最終協議をした。
ベアテは通訳としてその席にいた。
「男女同権のところに来たら
日本側が強く反発するんです。
でもケーディスが『これはシロタ嬢が
確固たる信念で作ったから可決しましょう』
通し切ってしまいました」
ベアテは39年に渡米するまでの十年間、
東京の乃木坂で両親と暮らした。
父レオ・シロタ、母オーギュスティーヌ
は共にウクライナ出身。
ベアテはピアニストの父が活躍
していたウィーンで生まれた。
山田耕筰に誘われて来日した父は、
東京音楽学校(現東京芸大)ピアノ科
主任教授を務めた。
ベアテは独英仏各語で学び
両親はロシア語で話した。
だが遊び相手は近所の子どもだった。
社交的な両親も日本人の友人を
次々に家に招いた。
ベアテは幼い目から昭和初期の
日本社会を観察する。
「男性は給料を奥さんに渡し,
教育もお母さんが決める。
でも女性は社会に出てこない。
自分からは離婚も出来ず、パティーの時
も自分は台所で食事をすましてましたね」
早熟なベアテは十五歳でカリフォルニア
の大学に入り十九歳で卒業した。
就職した雑誌「タイム」での
肩書きは「調査員」。
「記者」は男性に限られていた。
「私が全部材料を用意して,男性が書く。
出来るとまた私に回ってくる。
一語一語チェックして、間違ったら
私のせいなんです」
アメリカでは,戦争が人手を求めた
ため男女同権が進んだといわれる。
しかし、ベアテは女性が置かれた現実
にくちびるをかみ、日本の土を踏んだ
のだった。
二十六日夕、東京・本郷の学士会館分館
で,来日中のベアテはケーディスと並び
憲法学者たちに人権条項が後退したいき
さつについて説明していた。
「ルーストとワイルズは分かってくれた
けど、ケーディスさんたちは違いました」。
威な頭脳で聞こえたかつてのGHQ行政部長は、
隣でただ笑むばかりだった。
「あのときどんなお仕事をしていたのか,
今までまったく知らなかったんですよ」
洋画家,梅原龍三郎の長女、嶋田紅良=(77)は,
ベアテ・シロタ・ゴードンにそう言った。
幼なじみの二人は二十四日午後、東京で再開した。
ベアテが連合国軍司令部(GHQ)にいた
とき以来,四十六年ぶりだった。
憲法は日本政府の手で起草され,
帝国憲法の改正手続きを経て成立した。
そういう建前を,政府もGHQも貫いた。
GHQの憲法草案作成は極秘で,ベアテは自分が
関係していることを両親にも知らせなかった。
1947年5月、日本国憲法の誕生を見とどけて,
ベアテはアメリカへ戻る。
憲法制定過程にGHQが大きく関与していた
事実は50年代に入って日本国内でも
広く知られるようになった。
「押し付け」論が台頭した。
ベアテは沈黙を守った。
「憲法を変えるため,『こんな若い女性
が書いた』と言い出す人もいたんです。
利用されたら憲法が困ると思い,
インタビューもみんな断りました」
アメリカでは,日本との交流を求める
「ジャパン・ソサエティ」で働いていたが
65年まで来日を控えた。
日本の級友の多くは最近まで,彼女が
憲法起草者の一人であることを知らなかった。
だが,日本との縁は持ち続けた。
訪米した婦人運動下の市川房枝とアイゼン
ハワーとの通訳をしたこともある。
「市川先生には、自分が書いた女性の
権利の話はしました。
もちろん賛成してくれましたよ」
ベアテが「男女同権」条項を書いた
背景は,戦前の日本体験と戦中の
アメリカ体験だけだったのだろうか。
憲法草案作成当時、GHQのスタッフは,
高野岩三郎や鈴木安蔵ら日本の学者たち
の「憲法研究会案」も手に入れていた。
国民主権を打ち出した案だった。
チャールズ・ケーディス(87)も、
「それがなければ短期間では無理だった」
と、参考にしたことを認めている。
女性の権利を担当してベアテは
「参考にしたのはスカンジナビアの国の憲法」
といい、「日本の学者の案は研究しません
でした」と話している。
そのころ、GHQのスタッフを支えていたのは
「ルーズベルトのニューディールでした」
とベアテはいう。
「政府はみんなのために援助するという考え方。
私たちは日本の民主主義のために何かしたい
と思ってました」
ベアテはまた、しいたげられたものの
痛みを知る立場にもいた。
戦争が終わってすぐベアテが日本に
来たのは,両親に会うためだった。
ベアテが大学進学でアメリカに去ったあと,
父レオ・シロタは東京音楽学校を追われ,
両親は軽井沢で細々と暮らしていた。
再開すると、「パパは顔に線が出来るほど
やせていたし、ママは反対に栄養不良で
とっても太っていた」
ユダヤ人だった。
元々オーストリア国籍だったが、ナチス
の併合でドイツ籍になっていた。
ベアテは四十七年前の九日間を振り返る。
「私の人生の中で、一番面白かった
のはあの時です」
字句は大幅に変わったが、ベアテが
「自分らしい表現が残っている」という
憲法24条の1項をもう一度読もう。
「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し
夫婦が同等の権利を有することを基本として、
相互の協力により、維持されなければならない」
