私が「相続裁判」で問い続けるもの

「なぜ、私を産んだの?」
多くの婚外子が、この問いを母親にする。
自分のこの世での居場所、存在そのもへの不安を
幼心にも感じるからである。
「あなたが欲しかったからよ」との一言を
心の底で密かに望みながら……。

しかし私は母に聞いたことはない。
その問いを母親にするには、母の置かれた
状態はあまりに過酷すぎたからにほかならない。

初めて戸籍を見た時の衝撃を、私は忘れること
はできない。
自分が婚外子であることも、その差別記載も既に知っていた。
にもかからわず、「国が私を差別している証明書」
である戸籍を目の当たりにして……。
だが私は、その衝撃を人には勿論、自分にさえ隠そうとした。
傷ついていないと思い込もうとした。
差別と正面から向きあうのが怖かったからだ。
その後、自分が生まれてしまった「言いわけ」「償い」を
探さなければならないという思いが、半ば強迫のように私に
つきまとうことになった。

そして母の死。
母の短い結婚生活で生まれた姉と3人暮らしだった私は、
母の相続人として、姉の二分の一の権利しかないと知らされた。
「母と私の親子の絆は、姉の半分ーーお前は二分の一の人間なのだ」
と国が私に告げていた。

母は、姉の父と離婚後に私の父と出会うが、父の離婚が成立
しなかったために、私は婚外子となった。
父の死の7ヶ月前再婚した二度目の妻は、父の臨終も葬儀も
知らせてはくれなかった。
父の一人息子の死の時も同様で、私とは仲が良かった兄の死も、
病気のお見舞いに行った時に、兄の姿な病室にないことで
初めて知った。

「それは当然のこと、婚外子は殺人犯と同じような加害者
なのだから」という調停委員。
私は相続差別の持つ意味の重さを、改めて思い知らされた。

1950年代から始まっている婚外子裁判は、全て敗訴。
日本は恥ずべき判決を下し続けていた。
勝敗は私個人の力を超えたところにある。
ただし、たとえ「恥ずべき判決の記録」に終わろうと、
声を挙げることは、この世に生まれてしまった私の唯一の
存在証明であり、「言いわけ」に違いなかった。
自分の命の否定は、母の生の否定でもある。
婚外子を差別する社会に生まれたことが不幸なのであり、
婚外子として生まれたことは不幸ではない。
それは単なる事実に過ぎない。
母に告げられなかった「生んでくれてありがとう」との
思いを私は裁判に託した。

しかし1993年6月23日、結果は誰一人予想だにしなかった
「(婚外子相続差別)違憲決定」だった。

婚外子差別は、家制度の確立した明治時代に、現在の
形で創り上げられた。
それ以前にはなかった法的差別は、今なお続く性的基準
の男女差を作り出した女性差別でもある。
戦前は「イエ」の跡継ぎのスペアとして、戦後は法律婚
の奨励のために。
戦前戦後を通して、婚外子は「イエ」の存続のために
巧みに利用され続けている。
人と人とが寄り添う「家族」というより、子育てや老人
介護等の服の場として必要な「イエ」を確保し、その
「イエ」を効率よく使って巨大化してきた国。

婚外子という「下」を敢えて作ることにより、法律婚が
守られているかの幻想が生まれる。
罪もない婚外子を差別し続けることでしか維持できない
法律婚、戸籍、「イエ」制度。
それは一体、誰の幸せのためにあるのだろうか。
戦後なくなったはずの「イエ」は、戸籍制度の中で、
今も強かに息づいている。
婚外子差別は、それを必要とするイエ・戸籍制度の
問題にほかならない。

同族差別とは、遺産相続の額の割合を諮る裁判ではなく、
婚外子を一人の人間と認めるか否か、罪のない人間を差別
してやっと維持可能な家制度を、なお存続させるかを問う
裁判だったのである。

    岩波書店『世界』1995年10月号に訂正、加筆

「違憲判決の重み」

「違憲判決の重み」

「あなたはいわゆる不倫の子で、
生まれてはいけなかった子ですね?」
6月23日、婚外子の相続差別は違憲であるとの判決が
出た後の、テレビ番組の取材ででディレクターに
会った時の、彼の最初の言葉です。

一瞬、言葉を失った後、私は諦めの微笑みを
うかべながら心の中で呟きました。
今まで何の関わりもなかった人に会って、いきなり
「あなたは生まれてはいけなかった人間だ」
と言われなければならないほど、私はあなたに
何か悪いことをしたでしょうか。
誰にとって私は生まれてはいけなかったのですか?
両親にとってですか、あるいは国にとってですか、
それともあなたにとってですか?

様々な差別を問題にして闘っている人々からさえ
わすれされ置き去りにされてきた婚外子差別。
当事者が声を挙げなかったために「差別」として
認識さえされてきませんでした。
私たちがもっと訴えていかなければ……と話した時に
相手の人がポツリと言いました。
「法律が悪いんだ」

1993年5月『子どもの権利条約』批准に際して、
婚外差別を問題とした審議が外務委員会でなされました。
その時の政府答弁は次のようなものです。
婚外子に対する差異は「若干」とした上で、

「生まれてしまった子から見れば(略)非常におもし
ろくない話でありますけれども(略)法律婚制度を維持
するための手段としてなかなかいいものがないという
ことで(略)違反の予防として(略)合理性は
それなりにあるだろう」(祝儀委員外務委員会  5月20日)

「両親は判断できる立場(略)正常な、安定した婚姻
関係外と知りながらお産みになった」(同 5月21日)

「前文は(略)安定した家族の必要性を十分認識した
上で児童の権利をできるだけ認めていこう(略)権利と
いう点だけが主張されることは、この条約の解釈として
決して正しい方法ではない」(同上)

「正常な婚姻関係」という言葉自体に対しての異議申し
立ては別にしても「家族」を「届出婚をした家族のみ」
として守り、その後にできるだけ児童の権利を、との
認識です。
条約の作業部会アダム・ロパトカ議長は
「婚姻中に生まれたか否かにかかわらず児童は同一の
権利を持つという原則は文字通りにとらねばなりません。
この条約が非嫡出児童という概念をのものを拒否して
いることは明白であります」
と条約の精神を説明しています。
また、婚外子といっても事実婚の子、あるいは独身の男女
から生まれた子というように、いろいろなケースがあります。
例えば、同じ母親の元で共に育った子どもの間でも、届出婚
での子と婚外子がいた場合、その母親の相続に際しても
差別があるという事実には一切触れません。
この相続差別からは「婚姻を守る、妻を守る」ということは
難しいからでしょう。
人間には一応後同じ数だけ母親街rというのに、説明される
のはいつも「不倫をした父の相続」についてのみです。

1984年厚生省「児童扶養手当法について」では、婚外子の
母を、「いわゆるお妾さんまで税金による手当を(略)」
と説明しています。
婚外子=「不倫の子」、婚外子の母=「妾」とし、婚姻、妻
を守るための差別は当然だとする、民法900上4号但書の
教えは驚くほど人々の意識の中に染み込んでいます。
明治政府が家制度を守るため、つまり家の跡継ぎとして
巧みに利用されてきた婚外子が、戦後は「法律婚制度を
維持するための手段・違反の予防」として差別され続けて
いるのです。
相続差別の廃止と、妻の相続分の引き上げ(正式には
「配偶者」ですが、マスコミ等ではもっぱら「妻の」と
いう言葉が使われました)の改正案が、戦後2度
出されました。
しかし、2度とも配偶者の相続分引き上げのみが通り、
婚外子の相続差別が改正されることはありませんでした。

1979年の改正案が通らなかった理由として、法務省は
世論調査の結果、反対が多かったことをあげ「国民感情が
そういう状況にあるときにとても行くのは難しいだろう
ということで断念した」(同 5月21日)としています。

基本的人権に関することは、多数決で決める問題では
ないこと、またその調査の質問自体、作為的であったこと
も問題ですが、それ以前に、本来人権を守るべき立場にある
法務省のあり方として、この回答と姿勢に悲しさを感じ
ずにはいられません。

1969年、スウェーデンは婚外子に対完全な相続権を付与
しましたが、それは『非嫡出子を同輩として受け入れるよう
、一般公衆を教育する枠割りを演ずることを期待したの
唯一の理由だった」といいます。
1966年のイギリスの婚外子相続差別の、法改正報告書は
次のようなものです。
『親については何といわれようとも、非嫡出子はいかなる
非行も犯していない』、
1972年、フランス
『この改正は無責の子に関する良心の義務を果たし……』、
1972年、アメリカの最高裁判決、
『明らかにどの子も、その生命の誕生に責任はなく……』等々。
それに対して日本の国会の審議は……、そして人々の心は……。

「法律婚を維持するための手段、違反の予防」として婚外子を
罰することの残酷さを「合理的差別だ」と人々は信じ込まされ
て気づかないのでしょうか。
あるいは、気づかないふりをしているのでしょうか。
そして残念なことに「人々」の中には、婚外子自身も、私も
入っているのです。
国の法律は、人々に差別を正当化する根拠となるばかりでは
なく、婚外子に「自分は差別をされても仕方がない存在だ」
と思われるに足る力をもっているのです。

「婚外子は殺人犯と同じような加害者」という言葉を、家裁の
調停委員から言われた私は、昨年、国連規約人権委員会に
カウンターレポートを持って行きました。
カウンターレポートを手渡した時の、議長の最初の言葉は、
「『非嫡出子』ではなく『婚外子』と言うように」との
アドバイスでした。
その時、初めて私は「この世」から認知を受けたような気が
して、私も生きていていいのだと感じたことを思い出します。
国連から帰って『住民票続柄裁判」の証人に決まり、私自身の
家裁の審判が出て即時抗告をし、2月1日に「住民票続柄裁判」
の証言台に立ちました。

書いても書いても、打ち寄せる波に消されてしまう、波打ち際
で砂に文字を書く行為にも似た空しさ、それでもやめてはいけない
と自分に言い続けながら……。
そのような中での、今回の違憲判決。
「思いがけない」「嬉しい」と言う言葉で私の気持ちは、到底
表わしきれません。
記者会見の準備のため、時間のなかった私は、会見後に初めて
判決文全文を読みました。
『抗告人は非嫡出子というだけで他人や相続関係人から冷遇され、
同様の立場にある多くのものが、同じような仕打ちを受けている
ことは、公知の事実で、(略)軽視されてよいとは決して言えない』
という箇所を目にした時、モノレールからの雨に煙る景色が、
涙でもっとぼんやりするのを見ながら、裁判をして本当に良かった
と、私は心から思いました。

「1/2の価値しかない人間」としてではなく、一人の人間として
認めてくれた人と逢い、唯一の家族に……、という束の間の夢も、
嵐のように消え去りました。
嵐の多かった今年、私自身にもいくつかの嵐が通り過ぎました。
「野分のあした」に一人いる私には、この違憲判決のもつ、本当の
重みがわかっていないのかもしれません。
その真の重みと、深い感謝を、年月が私に教えてくれるとき、それに
対して恥ずかしくない生き方をしているようにと今は願うのみです。
本来は「ありがとうございました」と皆様に申し上げる文から
始めるべきだったのでしょう。
しかし、お祝いを言ってくださるたくさんの方々の言葉を嬉しく
思う一方で、それを受けるのは私ではない、というためらいが
ありました。
ですから「おめでとう」という言葉の後で、今田は私がこう
申し上げたいと思うのです。
「ありがとうございました」、そして「おめでとう!」と。

この違憲判決は「私が」ではなく、皆様お一人お一人が、
そう、あなたが勝ち取ったのですから。
                 1993年10月2日 いざよい

フィンランド大統領に選ばれたタルヤ・ハロネン氏  2000年2月7日 朝日新聞

シングルマザーとして育ててきた娘は21歳になった。
つきあいの長い今の恋人とも籍は入れず、
同じマンションの隣りに住んでいる。

対立候補のエスコ・アホ前首相が四人の父親
として、家庭の価値を前面に出して選挙戦を
戦ったのとは対照的な経歴だ。

欧州連合(EU)加盟と高い失業率という
明確な争点があった前回とは異なり、今回の
選挙戦では候補の性別に焦点があたった。

女性の参政権をいち早く認め、議員の
三分の一が女性というフィンランドだが、
大統領職はこれまで男性に占められてきた。

前回1994年の選挙では、女性のレーン前国防相
がアハティサーリ氏に惜敗した。

今回のハロネン氏の当選は、有力候補だった
レーン氏ら保守系女性に候補の指示票を、
政党を超えて集約した結果だった。

当選後、「この結果は女性の励みになると思う。
女性も男性同様、いかなる仕事にも就ける
ことを示したのだから」と語っている。

労働組合の弁護士だったころ
「赤毛の闘士」と呼ばれた。

社会民主党に加わった後も教会批判や
ゲイ擁護など過激な発言で知られた。

だが、EU議長国を務めた昨年後半は、
外相として調製手腕を発揮。

選挙戦でも過激な左派のレッテルを嫌い、
現実主義者であることを強調した。

行く手には多くの課題が待ち受けている。
隣国ロシアは政治的にも経済的
にも不安定なままだ。

北大西洋条約帰国(NATO)加盟
問題も決着がついていない。

アハティサーリ現大統領はNATOの
ユーゴスラビア空爆時に、ミロシェビッチ
・ユーゴ大統領から和平案受諾を引き出し
たことで評価を高めた。

大国にもてあそばれた歴史がはぐくんだ
小国の外交手腕が託される。
五十六歳。

    (ブリュッセル・山本敦子)

 

 

 

「婚外子相続差別違憲判決」1993年6月23日 東京高等裁判所

1 当裁判所は、民法九○○条四号ただし書き前段の
 規定は、憲法一四条一項の規定に違反し、無効
 であると解する。
 その理由は、次のとおりである。

(一) 憲法一四条一項所定の「社会的身分」とは、
出生によって決定される社会的な地位または身分と
いうと解されるところ嫡出子か嫡出子でないかは、
本人を懐胎した母が、本人の父を法律上の婚姻をして
いるかどうかによって決定される(民法七七二条)
事柄であるから、子の立場から見れば、まさに出生に
よって決定される社会的な地位または身分という
ことができる。
そうだとすると、民法九〇〇条四号ただし書き前段
の規定は、嫡出子と非嫡出子とを相続分において区別
して取り扱うものであることが明らかであるから、
憲法一四条一項にいう、「社会的身分による経済的
または社会的関係における差別的取り扱い」に当たる
というべきである。
そして、憲法一四条の下における平等の要請は、
事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくもので
ないかぎり、差別的な取り扱いをすることを禁止
する趣旨と解すべきである。

(二) ところで、社会的身分を理由とする差別的
取り扱いは、個人の意思や努力によってはいかんとも
しがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の
平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法一三条、
二四条二項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無
の審査に当たっては、立法の目的(右規定所定の差別的
な取り扱いの目的)が重要なものであること、および
その目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性が
あることの二点が論証されなければならないと解される。
そこで、以下右の二点について検討を加える。

(三) 立法の目的の重要性について
民法九〇〇条四号ただし書き前段の立法目的は、
正当な婚姻を奨励尊重することにあり、言い換えれば、
適法な婚姻に基づく家族関係を保護することにあると
説かれているが、ここで念頭に置かれているのは、
いわゆる「妾の子」に対して「妻の子」の利益を保護
することにより、結果的に法律婚を尊重しようという
旧家族制度に由来する沿革的思想に他ならない。
もっとも、右規定の立案に際しては、憲法の原則で
ある個人の尊厳と平等の立場から問題が提起されたが、
他方では、非嫡出子に相続権を与えること自体に
対する反対論があり、政党の婚姻を重んずるという
建前から旧民法の規定による差別的取り扱いがいわ
ば妥協の産物としてそのまま存億される形となった。
そして、右のような賛否両論を踏まえて、民法の一部
を改正する法律(昭和二二年法律第二二二号)が成立
するに際にしては、その審議の経過にかんがみ、
衆議院において、「本法は、可及的速やかに、将来に
おいて更に改正する必要があることを認める。」
旨の付帯決議がなされた。

その後、昭和五四年七月十七日付けで法務省民事局
参事官室から公表された相続に関する民法改正要綱
試案の二において、非嫡出子の相続分の平等化が
図られたが、当時の世論調査の結果等にかんがみ、
次期尚早としてこの部分の改正は見送られた
経緯がある。なお、右試案と同時に公表された
説明中には、非嫡出子の相続分の平等化を図る根拠
として、次のとおり述べられている。
「試案は、非嫡出子は、嫡出でない子とについて
みずから何の責任もないのに、現行法のように、
その相続分を、親を同じくする嫡出子の二分の一と
して区別することは、法の下の平等の理念に照らし
問題があること、及び両者の相続分を同等としても、
配偶者の相続分には変わりがなく、法律婚主義と
直接抵触するものでもないこと等の理由により、
非嫡出子の相続分は嫡出子の相続分と同等とする
のが適当であるとする意見によったものである。」
当裁判所は、適法な婚姻に基づく家族関係を保護
するという立法の目的それ自体は、憲法二四条の
趣旨に照らし、現在においてもなお、尊重される
べきであり、これが重要なものであることを肯定する。
しかしながら、嫡出子と非嫡出子との相続分を同等
としても、これにより配偶者の相続分はなんらの
影響を受けるものではないし、かりに、配偶者の側
に実質的な不平等が生ずることがあるにしても、
寄与分の制度を活用することにより是正可能である
ことが留意されるべきである。
(なお、生みの親の心情からしても、遺産の分配
につき嫡出子と非嫡出子との間に分け隔てされる
ことを当然とする者はいないのではないかと考え
られるし、相続制度の対極にある父母に対する扶養
の観点からしても、嫡出子と非嫡出子も双方平等に
義務を負っていることが指摘され得る。)。
もとより、適法な婚姻に基づく家族関係の保護が
尊重されるべき理念であることはいうまでもないが、
他方で、非嫡出子の個人の尊厳も等しく保護され
なければならないのであって、後者の犠牲の下で
前者を保護するような立法は極力回避すべきであろう。
(因みに、本件記録によれば、抗告人は非嫡出子
であるという理由だけで、これまで縷縷他人から
白眼視されただけでなく、本件の係争法条である
民法九〇〇条四号ただし書き前段を盾に相続関係人
から極めて冷ややかな遇(あしら)いを受けたこと
が認められる。そして、抗告人と同様の立場にある
者の多くが、右と同じような仕打ちを受けている
ことは、半ば公知の事実でもあることからすれば、
まさに、同法条は、結果的にしろ、非嫡出子に対する
差別心を人々の心に生じさせ、かつ助長する役割を
果たしているとも言えるのであり、このような現実
は軽視されてよいとは決していえない。)。
そして、この点に関する近時の諸外国における立法
の動向を見ると、非嫡出子についての権利の平等化を
強く志向する傾向にあることがうかがわれ、さらに、
国際連合による「市民的及び政治的権利に関する国際
規約」二四条一項の規定の精神及び我が国において
いまだ批准していないものの、近々批准することが
予定されている「児童の権利に関する条約」二条
二項の精神等にかんがみれば、適法な婚姻に基づく
家族関係の保護という理念と非嫡出子の個人の尊厳
という理念は、その双方が両立する形で問題の解決
が図られなければならないと考える。

(四)目的と規制手段との間の実質的関連性について
民法九〇〇条四号ただし描き前段の規制が非嫡出子
の相続分を嫡出子のそれの二分の一とすることにより、
すなわち、妻の子の利益を妾の子のそれよりも重視
することにより、結果的に法律婚家族の利益が一定
限度で保護されていること自体は、否定しがたい。
その意味では、右の規制と立法目的との間には、
一応の相関関係があるといえる。
しかしながら、右の規制があるからといって、
婚外子の出現を抑止することはほとんど期待でき
ない上、非嫡出子から見れば、父母がて違法な婚姻
関係にあるかどうかはまったく偶然のことに過ぎず、
自己の意思や努力によってはいかんともしがたい
事由により不利益な取り扱いを受ける結果となる
ことが留意されるべきである。これは、例えていえば、
まさに「親の因果が子に報い」式の仕打ちであり、
人は自己の非行のみによって罰または不利益を受ける
という近代法の基本原則にも背反していることが見逃
されてはならない。
次に、民法九〇〇条四号ただし書き前段の規制は、
一律に非嫡出子の相続分を嫡出子のそれの二分の一
としているから、たとえば、母が法律婚により嫡出子
を儲けて離婚した後、再婚し、子を儲けた場合に、
再婚が事実上の婚姻に過ぎなかったときは、母の相続
に関しても、嫡出子と非嫡出子とが差別される結果と
なり、同号ただし書き前段が本来意図している法律婚
家族の保護(その実質がいわゆる妾の子よりも妻の子
を保護することにあることは前述のとおりである)を
超えてしまう結果を招来すること、このような場合
には、いいかえれば、規制の範囲が立法の目的に
対して広きに過ぎることが指摘されなければならない。
以上の通り、民法九〇〇条四号ただし書き前段は、
目的に対して広すぎるという意味で正確性に欠ける
だけではなく、婚外子出現を抑止することに関して
ほとんど無力であるという意味で、適法な婚姻に
基づく家族関係の保護という立法目的を達成する
うえで事実上の実質地的関連性を有するといえるか
どうかも甚だ疑わしいといわざるを得ないのである。

(五)そうだとすると、民法九〇〇条四号ただし
書き前段の差別的取扱いは、必ずしも合理的な
根拠に基づくものとはいい難いから、憲法一四条
一項の規定に違反するものと判断せざるを得ない。

ドイツ婚外子出生率(1999)  1999年12月11日 朝日新聞

(桜井元)

ドイツの連邦統計庁はこのほど、1998年の
同国内の新生児78万5千人のうち、5分の1に
当たる約15万7千人は、両親が正式に婚姻届
を出していない婚外子だった、と発表した。

78年に婚外子は10パーセントだったので、
20年で2倍に増えた計算だ。

とくに旧東独地域では婚外子の比率が47パーセント
旧西独(16パーセント)の3倍近い。

東北メクレンブルグフォアポンメント州では
51パーセントと、法的な夫婦の赤ちゃんより
婚外子が多くなっている。

共働きの場合、結婚しても税・社会保障で大きな
利点がないことや、離婚率が高いことが背景にあると
見られるが、統計庁は増加の理由まで分析していない。

 

 

 

「日本女性への贈り物」1 1998年6月5日 週刊金曜日 ベアテ・ゴードン/落合恵子

落合

私は、ベアテさんが日本国憲法の草案づくり
にかかわられた直前の1945年生まれ、
日本国憲法そのものともに生きてきた
世代とも言えます。

ベアテさんの著書『1945年のクリスマス』
(柏書房)も読ませていただきました。

たくさんのプレゼントをいただいた側として
まずはお礼を申し上げたいと思います。
今回、来日されて、御自分が主人公の演劇
『真珠の首飾り』を御覧になられましたが、
舞台の感想からお聞かせください。

 

ベアテ

脚本は作家が書いたものですから、英語で
言うとポエティック・ライセンス(詩的許容)
があります。

ドラマですから仕方がないと思いますが、
内容は憲法の基本をきちっと表現していて
エンターテイメントだけではなく、教育
的意味があるのでとてもありがたいドラマ
だと思いました。

 

落合

主題曲の『真珠の首飾り』は
グレン・ミラーの名曲ですね。

主人公のベアテさんは69歳の語り手として
また22歳の民政局員として二役で登場する
わけですが、御自分お役を演じている俳優
さんを御覧になって、いかがですか?

 

ベアテ

率直に言って、たいへんよかったです。

若いベアテの俳優は、当時のスーツの形
もよく研究されていて、すごくよかった。

ちょっと、若いころの私に似ていましたしね(笑)。

 

落合

女性の観客が多かったですか?

 

ベアテ

女性も多かったですが、男性も多かったですよ。

18歳、19歳……高校生ぐらいの若い男性も
たくさん来ていました。

日本の若い人は歴史をあまり知らないから、
憲法についてのメッセージを舞台で生で
見せることはとてもよいことです。

テレビやラジオで伝えるだけではなく、
こういう芝居が必要だと思いますね。

 

落合

舞台を観た人は、日本国憲法がどういう
ものなのか、象徴天皇制、戦争放棄、
封建制度の廃止、さらに基本的人権の
意味と意義などを、自分により引き
寄せて考えられますからね。

日本では現在、新ガイドライン問題など
にともなって改憲論ーー私からすれば
改悪論ですがーーが強まっています。

そういう時期だからこそ、憲法がどうして
できたのかを知ることが大切だと思いますね。

 

落合

また、日本で憲法論議というと第九条
(戦争放棄)が中心となりがちですが、
同じ重さで人権の視点も大切にしたいですね。

男女平等をうたった憲法14条(法の下の平等)、
24条(家族生活における個人の尊厳と両性の
平等)の意味をもっと生活化したいです。

ベアテさんが22歳のとき、民政局のメンバー
として憲法草案づくりにかかわった、あの
「七日間の思いで」を聞かせてください。

 

ベアテ

あの時はいろいろな国の憲法を研究しました。

私は父(レオ・シロタ。 1885年5月、ロシア
・キエフ生まれ)が東京音楽学校(現在の
東京芸術大学)のピアノの教授になったため、
1929年、五歳の時にウィーンから日本に来て
東京・赤坂檜町に住みました。

15歳でサンフランシスコのミルズ・カレッジ
に留学するまでの日本の十年間の印象は、
女性たちは無権利状態でとても苦労し、
大変だったということです。

ですから、憲法には男女平等という基本的
権利だけでなく、女性の社会福祉の権利も
入れなければならないと思い、ワイマール
憲法をはじめ、ロシア、デンマーク、
スウェーデンの憲法を研究しました。

アメリカの憲法には「女性」という言葉は
出てきませんが、これらの憲法には女性の
権利がしっかりうたわれていましたからね。

 

落合

女性の権利に関してベアテさんが書かれた
草案のうち、三割ぐらいしか憲法条文に
反映されなかったとうかがったことが
あります。

原案にあって通らなかったもので
主な条項が三つありましたよね。

一つは「妊娠と乳児の保育にあたっている
母親は、既婚、未婚を問わず、国から守ら
れる」、

二つ目は「嫡出でない子ども(非嫡出子)
は法的に差別をうけない」。

三つ目は「すべての幼児や児童には、眼科、
歯科、耳鼻科の治療は無料とする」

女性や子どもの権利について非常に進歩的
な内容です。

一つ目の「母体保護」にしても、既婚女性
に限らず、「未婚を問わず」としてことは
50年たった今でも、画期的なことですね。

 

ベアテ

私は女性の権利や子どもの権利を具体的
に憲法の条文に入れれば、その内容は間違
いなく民法の条文にも入ると思ったのです。

だから、こうした社会福祉の権利を憲法
に入れたかった。

ところが草案を検討する運営委員会は
「ノー」だったのです。

「ダメだというのではない。
それは民法に入れるべき条項です」とね。

憲法の条文としてはなじまないという
ことでしょうか。

ケーディス大佐(GHQ民政局次長)は後に
「反対はしなかった」といっていますが
GHQの運営委員会のメンバーは、みんな
40歳ぐらいで、考え方がアメリカの一般
常識に影響されていました。

1946年当時のアメリカ男性は、女性の権利
についてそれほど真剣に考えていなかった
のでしょう。

でも、男女平等をうたった「基本的人権の
享有」(第11条)はカットされなかった
のでよかった。

 

落合

そうなんだぁ……。
とても印象的なのは、特に二つ目の
「非嫡出子は法的に差別をうけない」
の項目です。

カットされましたが、戦後53年たった
今でも、日本では非嫡出子への法的
差別は続いています。

ほんとに進歩的な草案でしたね。

 

ベアテ

私のママ(オーギュススティーヌ。
1893年7月、ロシア・キエフ生まれ)
が進歩的な女性だったのね。

当時のヨーロッパでも珍しかったけれど
離婚経験のある女性で、考え方はフェミ
ニズムだった。

それに大学(ミルズ・カレッジ)でも
進歩的な考え方の人が多く、私は、女性
の権利についてずいぶん教えられました。

 

落合

私もいろいろな活動でいい先輩に
めぐり合っていい影響を受けましたが
私の活動の原点は何かと考えるとき、
それは「人権」なんです。

すべて「人権」からはじまり、「人権」に
行きつくのですが、あの時代にそれを
条文に反映させようとされたベアテさん
はすごい。

しかも、「婚姻は、両性の合意のみに
基づいて成立し……」という24条の条文も
ベアテさんの草案では「親の強制ではなく
かつ男性の支配ではなく……」という言葉
が入っていたのですよね。

逆に、人権条項について22歳のベアテさん
という若い女性がかかわったことが、
ある種の反発も招きやすいと思われた?

ベアテさんは当時のいきさつを
お話しなさらなかったですよね。

 

ベアテ

日本国憲法草案を書いたとき、マッカー
サー元帥は、「日本の憲法だから、
制定までの議論は極秘」と命令したのです。

だから私たちはその後もしゃべらず、1947年
アメリカに帰り、翌年GHQの通訳でもあった
ジョセフ・ゴードンと結婚し、GHQとは
別の仕事をしていました。

1950年代に入ると日本では、いろいろな方
が「改憲したい」と発言し始めましたね。

私のところにも、第9条のことを聞きたい
といってきました。

当時、私は「改憲する必要があれば
女性の権利についてかな」と思っていた
のですが、「日本の学者か新聞記者が
“22歳の、何も知らないアメリカの女性が、
憲法の女性の権利についての草案を
つくった”と、私のことを改憲の理由に
していると書いていた」という話を
耳にしました。

その資料をお持ちの方がいらしたらぜひ、
見せていただきたいのですが、そういう
趣旨のインタビューだったら、私が発言
することは日本の女性の権利のために
悪いことになると思い、インタビュー
には応じなかったのです。

ところが5〜6年前、ケーディスさんが
日本の新聞やテレビのインタビューに
答えて、「女性の権利については、
ミセス・ゴードンのところへ行きなさい」
と言ったのね。

それで、日本のマスコミの人たちが
私のところへきたのです。

 

落合 
1950年代には、象徴天皇制や
再軍備をめぐって憲法論議が高まりました。

でも、若い女性が草案づくりにかかわった
からけしからん、憲法を“改正”しよう、
なんてとんでもない話です。

 

ベアテ

憲法が施行されて40数年たち、日本では
すでに女性の権利は社会の仕組みのなか
に組み入れられている。

だから、この条文は改正されないと自信を
持って日本のマスコミのインタビューに
応じるようになったのです。

女性の権利の確立は、戦後の歴史の事実
ですからね。

 

落合

ベアテさんはGHQ民政局と日本政府の
対訳会議(1946年3月4日〜5日)に
通訳として参加されましたよね。

その時の日本政府の代表者、つまり日本
の男性の反応はいかがでしたか?

 

ベアテ

草案を示した会議で日本側は、女性の
権利条項を出した私たちの草案を

「これは全然ダメだ」
「日本の社会と文化に合わない」と猛反対でした。

 

落合

そうなんです。

天皇制と女性差別は根っこがひとつ
なんですよね。

戦後・戦中の日本女性は、天皇制に
基づく家父長制のために、あらゆる
人権が奪われていたわけですから。

ですから女性の権利項目についても
天皇制と同じ過剰反応が出たのですね。

 

ベアテ

日本側の代表者は三人ぐらいでした。

そのなかには日本政府の憲法問題調査
委員会の松本烝治さんもいました。

でも、松本さんは会議にはちょっと
しかいませんでした。

そのおかげで男女平等の項目はパスしたのです。(注)

 

落合

その時、日本側から「こんな若い女性が
つくったのか」と、反対はでませんでした?

 

ベアテ

そんな暇はなかったですね、日本側は。

私が草案をつくったことを知ったときは
びっくりしちゃって、それでパス。

歴史の事実っておもしろいものですよ。

 

落合

その瞬間、憲法24条の「家族生活に
おける個人の尊厳と両性の平等」が
生まれたわけですからね。

戦前、ベアテさんは夫と妻が対等でない
日本、夫と妻が平等な家族生活を送らない
日本の家庭をずいぶん見られたと思いますが。

 

ベアテ

あまり見てはいないけど、話はずいぶん
よく聞いていました。

凶作の時身売りをされる農村の娘さん
の話とかね。

でも、本当の男女平等は憲法や法律では
なく、家庭の中そのものから変わらない
と実現しません。

まして戦前の日本は、あれだけ保守的、
封建的な家族制度でしたから。

一気に民主的家族制に飛ぶことは
できないと思います。

 

落合

時間が、かかる?

 

ベアテ

そうです。

50年という年月は歴史的には短いが、
民族に根づいた家族制度を変える
には時間がかかる。

アメリカだって、男女平等社会になる
にはずいぶん時間がかかっていますし、
今でも女性の最低基準サラリーは1時間
75セント。

男性は1ドル。

まだ男女間に25セントの差がある。

その上、グラス・シーリングがありますからね。

女性が50パーセントもいるのに2%の女性
しか企業のトップや、役所のトップになれません。

 

落合

グラス・シーリング、ガラスの天井ですね。

日本は2パーセントもいっていません。

これは私たち、今、生きる女性によって
とても大切な問題です。

ところで今日本では憲法を変えようと
いう動きがでています。

私は勿論反対ですが、国際貢献、自衛隊
のPKO派遣、新ガイドラインという動き
の中で、日本での改憲運動はアメリカに
おけるファンダメンタリズム(超保守
主義)の台頭と同じように、ある部分で
強まっています。

こうした改憲ーーもちろん改悪ですが
ーー派と正しく闘うためにはどういう
視点がが大切だと思われますか?

 

ベアテ

私も改憲には反対です。

憲法改正というパンドラの箱は絶対
に開けるべきではありません。

あまりに危険です。

憲法を改正しないでも、日本は長いこと
自衛隊を維持して、国連のPKO活動にも
参加しているではありませんか。

兵隊を海外に派遣しなくても、ドクター
やナースなどの医療奉仕団などを派遣
するとか、あるいはお金を出すことで
国際貢献ができます。

 

落合

NGO(非政府組織)も頑張っています。

 

ベアテ

一度、パンドラの箱を開けたらどこまで
突き進んでいってしまうか、それが心配
ですし、怖いです。

 

落合

私もそう思います。

 

ベアテ

女性の権利を守ることも大事ですし、
他の問題もありますが、今の日本社会
の中で実情にそぐわないことがあれば、
憲法を変えないでもできる。

民法を改正するとか、法律改正で
手直しできます。

国の基本法である憲法を変える必要
は考えられません。

50年以上も改正されていないことは、
それだけですばらしい憲法だという
ことではないですか。

もし、第9条・戦争放棄を変えようと
したら、アジアの国々はどう思うで
しょうか。

アジアの人達は、戦前の日本及び日本
の軍隊がやったことを忘れてはいません。

だから憲法改正を考えることは危ない
と思うし、日本を、とんでもない違う方向
に持っていくような不安があるのです。

日本国憲法をつくるとき、マッカーサー
の指令で「象徴というかたちで天皇制を
残す」ことが決められましたが、その時
もファーイースタン(極東)コミッション
会議では、「象徴であっても天皇制を残す
ことに反対」の意見があったと聞いています。

とくに中国、ロシア、オーストラリアの
代表からそうした意見が出たそうです。

 

落合

そうした歴史の上で生まれた日本の女性
の権利ですが、戦前の女性に比べて、
今の日本女性を見てどう思われますか?

 

ベアテ

自信を持って活動的に生きていますね。

街の中を歩いている人を見ても、
解放されたみたいな感じです。

実際、女性がいろいろな職業で
活躍しているでしょう。

ジャーナリスト、アナウンサー、
デザイナー……50年前にはとても
考えられなかったことです。

昨年11月に、北海道から長崎まで
「女性の平和のための講演」で歩きました
が、そこで出会った女性たちは、私が
50数年前に「日本の女性はこう変わって
ほしい」と思った女性の姿でした。

家父長制の家制度から解放されて、社会
で働くことと家庭の中での仕事のバランス
をとることができます。

裁判官、弁護士、代議士、政党の党首
にも女性がいるし、沖縄県・埼玉県の
副知事も女性です。

外から見るとすごく活動的に輝いています。

男性よりも楽観的ですし(笑)、アメリカ
の女性よりも平和運動に対して積極的です。

 

落合

もしベアテさんが、国連の人権委員会
のようなところでもう一度、日本の憲法、
あるいは世界の憲法をつくるとしたら、
どんな条項を入れたいですか?

 

ベアテ

老人のこと。
老人福祉ですね。

22歳の時には考えもしなかったし、
あのころの日本は家族がみんな一緒に
暮らしていたので老人問題はなかった。

でも、自分が年をとって感じたことは、
男女平等と同じように若い人と老人の
間の平等が必要ということです。

 

落合

最後になりますが、ベアテさんにとって
理想とする世界、地球はどんな姿ですか?

 

ベアテ

一つは平和であることです。

国籍がどうあれ、どこに住む人でも、
子どもが生まれれば喜ぶし、親しい人
と会えば抱きしめて笑ったり泣いたりする。

国や民族の文化の違いは
たいした違いではありません。

宗教の違いにも大差がありません。
みんな同じ気持ちで平和に生きられる
はずです。

でも、社会的・経済的には平等に
ならなければなりません。

一方に大きな金持ちがいて、他方に貧困
にあえぐ人がいる社会はよくない。

国同士の関係でも同じです。
経済的にも平等な世界、そんな
地球になってほしいと思います。

 

落合

素敵なメッセージをありがとうございました。

平和な地球の実現に向けて、私たちは一歩
一歩、歩いていくことが必要ですね。

         (5月1日 東京都内にて)

 

 

日本国憲法

第14条 (法の下の平等、貴族の禁止、栄転)

① すべて国民は、法の下に平等であって、
* 人権、信条、性別、社会的身分または
* 門地により、政治的、経済的又は社会的
* 関係において、差別されない。

② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、
 いかなる特権も伴わない。
 栄典の授与は、現にこれを有し、
 又は将来これを受ける者の一代に限り、
 その効力を有する。

 

第24条 (家庭生活における個人の尊厳と両性の平等)

① 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、
 夫婦が同等の権利を有することを基本として、
 相互の協力により、維持されなければならない。

② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の堰堤、
 離婚ならびに婚姻および家族に関する
 その他の事項に関しては、法律は、
 個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、
 制定されなければならない。

(注)日本政府は1945年10月25日、国務大臣・
松本烝治を長とする憲法問題調査委員会を
発足させた。

この松本委員会が明治憲法の改正作業に着手、
翌46年2月1日、「毎日新聞」が松本案を
スクープ報道。
その内容があまりに保守的でポツダム宣言の
精神が生かされなかったことに失望した
連合軍最高司令官マッカーサー元帥は
GHQ民政局に草案作成を命じ、ホイットニー局長、
ケーディス局次長が中心となり、ベアテさんを
含めた二十五人の民政局員が46年2月4日から
7日間で草案をまとめ、13日、日本政府にわたし、
3月4日〜5日に対訳会議が行われた。

 

 

「1997年度 エイボン 女性大賞受賞 」 エイボンより 

ベアテ・シロタ・ゴードン
1923年 ウィーンに生まれる。
父親はリストの再来と謳われた、ロシアの
ピアニストのレオ・シロタ。

 

1929年 山田耕筰の招聘で東京音楽学校(後の芸大)
に赴任した父とともに来日。

1939年 単身でサンフランシスコのミルズ・
カレッジに入学。

1945年 GHQ民間人要員として日本に赴任する。

1946年 日本国憲法草案に、男女平等の条項を書く。

1947年 アメリカに帰国。

1952年 渡米した市川房枝の通訳として、
2ヶ月間全米を旅行。

1954年 ジャパン・ソサエティで働き始める。

1958年 ジャパン・ソサエティのパフォーミング・
アーツ部門の初代ディレクターに就任。

1960年 アジア・ソサエティの仕事も兼務。

1993年 アジア・ソサエティを退職。同顧問に就任。

 

 

1997 AVON AWARDS TO WOMENより

「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し
夫婦が同等の権利を有することを基本として
相互の協力により、維持されなければならない。

配偶者の選択、財産、相続、住居の選定、
離婚ならびに婚姻及び家庭に関するその他
の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と
両性の本質的平等に立脚して、制定されな
ければならない。」

これは日本国憲法第24条です。
この条文を貫く〈男女平等〉の思想は、
終戦直後、弱冠22歳のベアテ・シロタ・
ゴードンさんによって、新憲法草案に
盛り込まれました。

日本国憲法の草案の作成は、連合国軍
総司令部(GHQ)によって秘密裏に進められ、
憲法施行後も長い間、だれが関わったのか
明らかにされてはいませんでした。

それが近年、女性の権利の関する条項は
ベアテさんが担当したことが知られる
ようになってきたのです。

ベアテさんは1929年(昭和4年)5歳の時、
ピアニストの父が東京音楽学校(現・東京芸大)
の教授として赴任するのに伴われて
家族3人で来日しました。

以来、15歳までの10年間を日本で暮らしました。
東京での暮らしをはじめたベアテさんの家は、
父の音楽家としての名声と母の女主人としての
才覚で、来日している各国の芸術家や日本の
各界著名人たちが集まるサロンとなりました。

梅原龍三郎画伯の自宅が近所にあり、
ベアテさんは毎日のように遊びに行っては
楽しい時間を過ごしたといいます。

当時、上流階級や、地主・裕福な商人の家
などでは妻妾同居があったり、凶作の年など
には農村の若い女性が身売りされたり、
結婚は当人同士の意思よりも家と家との
結びつきのほうが重視されていたため、
親同士の思惑で決められたりしていました。

幼いベアテさんは、日本人の家庭の様子や
妻と夫の関係が、自分の家庭と比べてあまり
にも違い過ぎているように感じていました。

15歳になったとき、ベアテさんは一人で
アメリカのミルズ・カレッジに留学します。

その後、日米の開戦、日本の敗戦と続きました。

戦争による学費などのストップにも大変困り
ましたが、そのこと以上に両親のことが心配で
心配でいてもたってもいられませんでした。

そこで終戦後は直ちに得意の日本語を生かして
GHQの民間人要員となって来日し、幸いにも
両親の無事を確認することができたのです。

GHQは日本の社会を民主化することを目的に、
人権に関する覚え書き、財閥解体に関する
覚え書き、農地改革に関する覚え書きなどを
次々に出しました。

そしていよいよ、民主化の根幹をなす
憲法改正を日本側に求めます。

ところが、日本側の憲法問題調査委員会の
出した草案は、明治憲法の語句の修正程度に
すぎず、民主化とはほど遠い内容のものでした。

そこで急遽、GHQ内部に新憲法草案作成の
極秘命令が下り、ベアテさんも作成メンバー
の一員に抜擢されました。

ベアテさんは人権条項を担当することになり、
「あなたは女性だから、女性の権利条項を
書きなさい」
と言われます。

「女性の権利を……」と聞いてベアテさんの
心に蘇ってきたのは、少女時代に出会った
日本の女性の何の権利もない状態でした。

「女性は弱い立場だから、憲法で女性の
権利を保障しなければだめ、民法だけ
では不十分と確信していましたから」、
日本の女性に必要と思われる権利を
たくさん盛り込もうと、6 カ国語に堪能
だったベアテさんは、早速ジープで東京中
の図書館を飛び回って世界各国の憲法
を取り寄せました。

その際、草案作成は極秘命令だったため、
怪しまれないように、一つの場所に集中
させず少しずつ多くの図書館から集めました。

それから、それらのすぐれた部分を参考
にした条項作成に取りかかったのです。

ワイマール憲法、旧ソビエト憲法、フィンランド
憲法などには、男女同一賃金、非嫡出子への
差別禁止など、現在の日本でも今日的な問題
となっている条項が入っています。

ベアテさんはこれらを参考に、女性の権利
を取り入れた条項を多く書きましたが、
「アメリカの憲法以上に権利を与え過ぎている。
憲法に社会福祉条項は入れない。
それらは民法で」と、運営委員会で
削られてしまいました。

そして〈男女平等〉条項だけが
憲法24条として残ったのです。

「いちばん大事な権利は入りましたが、
もっと社会的なものを入れたかったのに……。
残念で泣いてしまいました」

「日本の憲法はアメリカの押しつけと思われて
いますが、女性は喜んで迎えてくれました。
50年間も改正されなかったのは
よい憲法だからです。
人権問題は日本だけの問題ではありません。
日本の憲法は世界のモデルです。
私の願いは、平和や平等が書かれた日本の憲法
を世界の人々へ伝え、分かち合ってほしいと
いうことです」

と、ベアテさんは熱い期待を寄せています。

ベアテさんが学んだミルズ・カレッジは、
「女性が家庭をもつことは大事なこと
だけれども、社会への貢献も忘れては
いけない」ということが教育理念
として掲げられていました。

ベアテさんは、その理念を人生の
指針として実行してきました。

1947年にアメリカに帰国したベアテさん
は、1952年には、渡米した市川房枝さん
の通訳として全米旅行に同行しました。

その後ジャパン・ソサエティ、アジア・
ソサエティで文化交流の仕事に携わり、
日本やアジア各国の文化人、各種団体を
数多く招聘してきました。

1993年に、アジア・ソサエティを退職しま
したが、「女性にリタイアはありません」
と、これまでの経験を生かしてさらに
グローバルな文化交流の構想を練っています。

今年は、日本国憲法が施行されてから
50年になります。

50年前、日本中が戦後の混乱期の中で
食うや食わずの苦しい生活をしていました。

そんなとき日本女性へ、〈男女平等〉という
新しい出発に向けての大きなプレゼントを
贈ってくれたベアテさんに、「ありがとう
」と感謝をこめていいたいと思います。

(1997年度 エイボン 女性大賞受賞  エイボンより)

 

 

民法改正

『戸籍時報』1993年2月

民法改正

1991年1月  開始

1992年12月   中間報告

1994年7月  要綱試案

1995年9月  改正案

1996年2月  法制審議会 法務大臣に答申

 

 

1993年2月『戸籍時報』日本加除出版株式会社
講演『法制審議会民法部会身分法小委員会に
おける婚姻・離婚法改正の審議について(下)」
*  法務省中央更生保護審査会委員 野田愛子

第五 その他

その他、非嫡出子の相続分が二分の一であることは
児童権利条約の二条に違反しないか、そのあたりは
検討しなくていいだろうかとか、細かい問題が
いくつかございます。その点は省かせていただきます。
以上をもって一応も生命を終わらせていただきます。

「婚外子相続差別裁判」(1990年〜1995年)

1990年12月12日    静岡家裁熱海出張所   合憲
(Y 一審)    ↓
_____________________________
1991年3月29日   東京高裁        合憲
(Y 二審)
__________________________________________________________

1992年12月      千葉家裁        合憲
(N 一審)    ↓
___________________________
1993年6月23日   東京高裁        違憲   ★
(N 二審)
___________________________
1994年11月30日     東京高裁        違憲   ★
______________________________________________________
1995年4月     横浜家裁 川崎支部審判 違憲   ★
______________________________________________________
1995年7月5日      最高裁 大法廷     合憲
(Y、三審)
______________________________________________________

 

⭐️最後の合憲判断だった最高裁のですが、15人の裁判官のうち
 違憲(5):合憲(10)となっていていますが、合憲の10人のうち
 4人の補足意見によりますと、「合理性は相当疑わしい。
 立法で解決すべき」とされています。
 となりますと、この「合理性は相当疑わしい」という4人を
 違憲の5人に加えると9人となり、実質の内容は以下のよう。
   違憲 合憲
      5 : 10
  _  _  _ _ _ _ _ _ _ _ _
      9 :  6

 

なお、1993年6月23日の高裁違憲決定から、1995年7月5日の
最高裁合憲判断までの約2年の間に、相続以外の「児童扶養手当』
や『住民票」の婚外子差別裁判も含めて違憲決定が続いていました。

 

1993年 6月23日  相続      東京高裁  違憲決定
1994年  11月1日     児童扶養手当  奈良地裁  違憲判決
  11月30日     相続         東京高裁  違憲決定
1995年  3月22日      住民票        東京高裁  違憲決定
     4月2日       相続(調停)      横浜家裁      違憲判断