「1997年度 エイボン 女性大賞受賞 」 エイボンより 

ベアテ・シロタ・ゴードン
1923年 ウィーンに生まれる。
父親はリストの再来と謳われた、ロシアの
ピアニストのレオ・シロタ。

 

1929年 山田耕筰の招聘で東京音楽学校(後の芸大)
に赴任した父とともに来日。

1939年 単身でサンフランシスコのミルズ・
カレッジに入学。

1945年 GHQ民間人要員として日本に赴任する。

1946年 日本国憲法草案に、男女平等の条項を書く。

1947年 アメリカに帰国。

1952年 渡米した市川房枝の通訳として、
2ヶ月間全米を旅行。

1954年 ジャパン・ソサエティで働き始める。

1958年 ジャパン・ソサエティのパフォーミング・
アーツ部門の初代ディレクターに就任。

1960年 アジア・ソサエティの仕事も兼務。

1993年 アジア・ソサエティを退職。同顧問に就任。

 

 

1997 AVON AWARDS TO WOMENより

「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し
夫婦が同等の権利を有することを基本として
相互の協力により、維持されなければならない。

配偶者の選択、財産、相続、住居の選定、
離婚ならびに婚姻及び家庭に関するその他
の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と
両性の本質的平等に立脚して、制定されな
ければならない。」

これは日本国憲法第24条です。
この条文を貫く〈男女平等〉の思想は、
終戦直後、弱冠22歳のベアテ・シロタ・
ゴードンさんによって、新憲法草案に
盛り込まれました。

日本国憲法の草案の作成は、連合国軍
総司令部(GHQ)によって秘密裏に進められ、
憲法施行後も長い間、だれが関わったのか
明らかにされてはいませんでした。

それが近年、女性の権利の関する条項は
ベアテさんが担当したことが知られる
ようになってきたのです。

ベアテさんは1929年(昭和4年)5歳の時、
ピアニストの父が東京音楽学校(現・東京芸大)
の教授として赴任するのに伴われて
家族3人で来日しました。

以来、15歳までの10年間を日本で暮らしました。
東京での暮らしをはじめたベアテさんの家は、
父の音楽家としての名声と母の女主人としての
才覚で、来日している各国の芸術家や日本の
各界著名人たちが集まるサロンとなりました。

梅原龍三郎画伯の自宅が近所にあり、
ベアテさんは毎日のように遊びに行っては
楽しい時間を過ごしたといいます。

当時、上流階級や、地主・裕福な商人の家
などでは妻妾同居があったり、凶作の年など
には農村の若い女性が身売りされたり、
結婚は当人同士の意思よりも家と家との
結びつきのほうが重視されていたため、
親同士の思惑で決められたりしていました。

幼いベアテさんは、日本人の家庭の様子や
妻と夫の関係が、自分の家庭と比べてあまり
にも違い過ぎているように感じていました。

15歳になったとき、ベアテさんは一人で
アメリカのミルズ・カレッジに留学します。

その後、日米の開戦、日本の敗戦と続きました。

戦争による学費などのストップにも大変困り
ましたが、そのこと以上に両親のことが心配で
心配でいてもたってもいられませんでした。

そこで終戦後は直ちに得意の日本語を生かして
GHQの民間人要員となって来日し、幸いにも
両親の無事を確認することができたのです。

GHQは日本の社会を民主化することを目的に、
人権に関する覚え書き、財閥解体に関する
覚え書き、農地改革に関する覚え書きなどを
次々に出しました。

そしていよいよ、民主化の根幹をなす
憲法改正を日本側に求めます。

ところが、日本側の憲法問題調査委員会の
出した草案は、明治憲法の語句の修正程度に
すぎず、民主化とはほど遠い内容のものでした。

そこで急遽、GHQ内部に新憲法草案作成の
極秘命令が下り、ベアテさんも作成メンバー
の一員に抜擢されました。

ベアテさんは人権条項を担当することになり、
「あなたは女性だから、女性の権利条項を
書きなさい」
と言われます。

「女性の権利を……」と聞いてベアテさんの
心に蘇ってきたのは、少女時代に出会った
日本の女性の何の権利もない状態でした。

「女性は弱い立場だから、憲法で女性の
権利を保障しなければだめ、民法だけ
では不十分と確信していましたから」、
日本の女性に必要と思われる権利を
たくさん盛り込もうと、6 カ国語に堪能
だったベアテさんは、早速ジープで東京中
の図書館を飛び回って世界各国の憲法
を取り寄せました。

その際、草案作成は極秘命令だったため、
怪しまれないように、一つの場所に集中
させず少しずつ多くの図書館から集めました。

それから、それらのすぐれた部分を参考
にした条項作成に取りかかったのです。

ワイマール憲法、旧ソビエト憲法、フィンランド
憲法などには、男女同一賃金、非嫡出子への
差別禁止など、現在の日本でも今日的な問題
となっている条項が入っています。

ベアテさんはこれらを参考に、女性の権利
を取り入れた条項を多く書きましたが、
「アメリカの憲法以上に権利を与え過ぎている。
憲法に社会福祉条項は入れない。
それらは民法で」と、運営委員会で
削られてしまいました。

そして〈男女平等〉条項だけが
憲法24条として残ったのです。

「いちばん大事な権利は入りましたが、
もっと社会的なものを入れたかったのに……。
残念で泣いてしまいました」

「日本の憲法はアメリカの押しつけと思われて
いますが、女性は喜んで迎えてくれました。
50年間も改正されなかったのは
よい憲法だからです。
人権問題は日本だけの問題ではありません。
日本の憲法は世界のモデルです。
私の願いは、平和や平等が書かれた日本の憲法
を世界の人々へ伝え、分かち合ってほしいと
いうことです」

と、ベアテさんは熱い期待を寄せています。

ベアテさんが学んだミルズ・カレッジは、
「女性が家庭をもつことは大事なこと
だけれども、社会への貢献も忘れては
いけない」ということが教育理念
として掲げられていました。

ベアテさんは、その理念を人生の
指針として実行してきました。

1947年にアメリカに帰国したベアテさん
は、1952年には、渡米した市川房枝さん
の通訳として全米旅行に同行しました。

その後ジャパン・ソサエティ、アジア・
ソサエティで文化交流の仕事に携わり、
日本やアジア各国の文化人、各種団体を
数多く招聘してきました。

1993年に、アジア・ソサエティを退職しま
したが、「女性にリタイアはありません」
と、これまでの経験を生かしてさらに
グローバルな文化交流の構想を練っています。

今年は、日本国憲法が施行されてから
50年になります。

50年前、日本中が戦後の混乱期の中で
食うや食わずの苦しい生活をしていました。

そんなとき日本女性へ、〈男女平等〉という
新しい出発に向けての大きなプレゼントを
贈ってくれたベアテさんに、「ありがとう
」と感謝をこめていいたいと思います。

(1997年度 エイボン 女性大賞受賞  エイボンより)

 

 

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