憲法を考える 澤地久枝 朝日新聞 2000年12月26日(火)

憲法を考える
澤地久枝 「国家も軍隊も市民を守らぬ」

 

――改憲論の焦点、
九条についてどう考えますか?

 

新しい憲法ができるころから
反対する政治勢力はありました。

憲法制定や米軍占領に続く時代には、
そういう人たちは黙っていた。

しかし、米国の対日政策も変化し、
保守勢力が力を回復してくると、
表現をごまかしながら改憲、
軍事力の復活を持ち出してきた。

政府は当初、自衛を含めて武力
保持一切を認めていません。

だが、警察予備隊は軍隊ではないと
言い、次に自衛隊の海外派兵は絶対
しないと繰り返し、半世紀たったら
自衛隊は世界有数の軍隊になっていた。

既成事実の押しつけに対し、
根本的議論抜きでここまで来た。

憲法を守りたいと思う人々も、
あの軍事集団をどうするのか、
自問自答し、思考を拘束
される状況だと思います。

 

――調査会では「憲法を守って国が
滅びたらどうなる? 国家あっての
国民だ」との意見がでました。

 

ご冗談を。

旧満州(中国東北部)で敗戦を
迎えた私は、十四歳で「国家の崩壊」
を目の当たりにしました。

国家なんて一夜にしてなくなり、
だれも責任をとらない。

関東軍幹部はいち早く南下し、
ほとんどの在満日本人は見捨てられた。

集団自決が起き、中国残留孤児
や残留婦人が生まれた。

国も軍隊も市民を守っていないのです。

「国家あっての人間」という
考え方にはあきれる。

人間がいなくなって
国家が存在するのですか。

 

――新憲法を高等女学校で学ばれましたね。

 

一年の難民生活を経て帰国しました。

男女平等、軍隊いらない、
戦争はもうしない。

新憲法の各条は当然のことと思いました。

ただ教師が「天皇が象徴であることに
みんなは異論があるかも知れないが」と
説明したことはよく理解できなかった。

今から思えば、あれは一つのキーワード
敗戦を境に新しい歴史を生きるべく、
共和制になった方がよかったと思う。

戦後、憲法のことを真剣に考えるように
なったのは、朝鮮戦争と早大の反レッド
パージ(共産党関係者追放)闘争の中でした。

先の戦争も少数派の否定と
追放から始まったからです。

人間は「個」として尊重されるべき存在と
日本人が自覚をしてからの時間は短い。

お上が絶対だった歴史の方が長いから、
すぐに声を上げなくなる。

 

――最近の改憲論の特徴は?

バブル後の長期不況、リストラと
いう人員整理、生活不安の中で、
これまで小出しにされてきた
「軍隊を持つのは当たり前」
論が前面に出てきたこと。

国家の統治能力が衰え、経済をはじめ
国の勢いに衰えが見え始めると、
どの国も「国威の発揚」への熱意が
政治の重要課題になる。

国旗・国家法制化など、
その典型ではないですか。

私には憲法を変えるよりも、二十一世紀
を前に地球のいかなる成員として生きて
いくかというプランの方が緊急です。

 

――今世紀の終わりに当たり、
九条の理念について。

 

「正義の戦争」なんて存在しない。

戦争の世紀といわれた二十世紀、
ついに真の勝者はいなかった。

戦争は究極の解決策にならないばかりか、
遺族の悲しみは勝敗を超えて今も続きます。

反ファシズムを大義名分にした第二次
大戦の連合国側にもソ連国内への粛清
があり、米国の「民主主義」と連れだ
った武器商人の影があった。

このままいけば地球環境は破壊
され、人類も危機に直面する。

日本国憲法はそれを避けるための
一つの知恵であり理想でしょう。

         (本田雅和)

 

さわち・ひさえ
東京都生まれ。
70歳。
4歳で家族と旧満州へ。
敗戦後、16歳で引き揚げ。

 

 

「日本国憲法の誕生を検証する」ベアテ・シロタ・ゴードン、西修 インタヴュー2

草案

ベアテ草案 ベアテ・シロタ・ゴードン案は
憲法の中に人権・男女平等を基本にたくさん
の案が盛りこめられた。

ほとんどが削除されたその中で、第14条の
「法の下での平等」と第24条「家族生活に
おける個人の尊厳と両性の平等」は成文化、
生存権的基本権がすでに打ち出されていた。

○現行憲法第24条、第25条、第27条
第19条 妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。
必要な場合は、既婚未婚を問わず、
国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に
差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様
に身体的、知的、社会的に成長することに
おいて権利を持つ。

第20条 養子にする場合には、その夫と妻の
合意なしで家族にすることはできない。
養子になった子どもによって、家族の他の者
たちが不利な立場になるような特別扱いを
してはならない。
長子の権利は廃止する。

第21条 すべての子供は、生まれた環境に
かかわらず均等にチャンスが与えられる。
そのために、無料で万人共通の義務教育を
八年制の公立小学校を通じて与えられる。
中級、それ以上の教育は、資格に合格した
生徒は無料で受けることができる。
学用品は無料である。
国は才能ある生徒に対して援助することができる。

第24条 公立・私立を問わず、児童には、医療・
歯科・眼科の治療を無料で受けられる。
成長のために休暇と娯楽および
適当な運動の機会が与えられる。
第25条 学齢の児童、並びに子供は、賃金の
ためにフルタイムの雇用をすることはできない。
児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。
国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、
日本は最低賃金を満たさなければならない。

第26条 すべての日本の成人は、
生活のために仕事につく権利がある。
その人にあった仕事がなければ、その人の
生活に必要な最低の生活保護が与えられる。
女性はどのような職業にもつく権利を持つ。
その権利には、政治的な地位につくことも
含まれる。
同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける
権利がある。

 

○現行憲法第24条の下敷き
第18条 家庭は、人類社会の基礎であり、
その伝統はよきにつけ悪しきにつけ
国全体に浸透する。
それ故、婚姻と家庭とは法の保護を受ける。
婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的
にも平等であることは当然である。
このような考えに基礎をおき、親の強制ではなく
相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく
両性の協力にもとづくべきことをここに定める。
これらの原理に反する法律は廃止され、それに
かわって配偶者の選択、財産権、相続、住居の
選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他
の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の
見地に立って定める法律が制定されるべきである。

 

Book
2006/05 『ベアテさんのしあわせの
つかみかた』毎日新聞社、
ISBN 4620317667==「政治的な意見や
子育てについての意見がだいたい
同じであるパートナーを選ぶ」
「いつもふたりで考える」

2006/04 『ベアテと語る「女性の幸福」
と憲法』晶文社、ISBN 4794966970 /
インタビュア: 村山アツ子、構成: 高見澤たか子

1999/08『私は男女平等を憲法に書いた』
(講演録、新潟ウィメンズ企画
Women’s studies in にいがた)新潟ウィメンズ企画

 

1997/01 The Only Woman in the Room – A Memoir
講談社インターナショナル、ISBN 4770021453

 

1995/10 『1945年のクリスマス 日本国憲法に
「男女平等」を書いた女性の自伝 』(構成・
文:平岡磨紀子)、柏書房、ISBN 4760110771
/普及版(2001年6月)、講談社インター
ナショナル、ISBN 477002732X

「女性の権利の問題だが、日本には、
女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。
日本女性には適さない条文が目立つ」
通訳として会議に出ていた私は、日本側
の言い分を正確に伝えなければいけない。
気持ちは複雑だった。
「しかし、マッカーサー元帥は、占領
政策の最初に婦人の選挙権の授与を
進めたように、女性の解放を望んで
おられる。
しかも、この条項は、この日本で育って、
日本をよく知っているミス・シロタが、
日本女性の立場や気持ちを考えながら、
一心不乱に書いたものです。
悪いことが書かれているはずはありません。
これをパスさせませんか?」
ケーディス大佐の言葉に、日本側の佐藤
達夫さんや白州さんらが一斉に私を見た。
彼らは、私を日本人に好意を持っている
通訳として見ていたので、びっくりした
のだった。
一瞬、空白の時があった。
「このシロタさんが?
それじゃあ、ケーディス大佐の
おっしゃる通りにしましょう」
(本書、p.216)

 

Movie
2004「ベアテの贈りもの」藤原智子監督
==父シロタのピアノ演奏が使われている.
「日本国憲法」 ジャン・ユンカーマン監督

 

 

「日本国憲法の誕生を検証する」ベアテ・シロタ・ゴードン、西修 インタヴュー3

ベアテ・ゴードン・シロタ女史

「経歴」父君は東京音楽学校(現在東京芸術大学)
の有名なピアノ科の教授、レオ・シロタ氏。

彼女は五歳のときに来日、十年間日本に滞在。

高等教育を受けるためアメリカへ渡り
カリフォルニア州の名門女子大学で
あるミルズ大学を卒業。

その後タイム・マガジン誌、
外国経済局に勤務。

戦後GHQの募集に応募、
採用され民政局配属。
民政局では政治問題を担当。
二二歳。

当時通訳官だったジョセフ・
ゴードン氏と結婚。
現在,アジア財団のディレクター
としてアジア(当然日本を含む)
の芸術を広くアメリカで紹介する
のに多大な貢献をしている。

筆者が同女史に対してインタビューした
のは昭和五十九年十月十九日のことである。

この日の夕方、同女史はバージニア州
ノーフォークのマッカーサー記念館で
開かれた学会において記念スピーチを
行うことになっており、忙しい間を
ぬってインタビューが実施された。

 

両親のいる日本

西

最初に、GHQとの関わりについて
簡単にお話しいただけないでしょうか。

ゴードンさんは、戦前から日本に
いらして、お父さまが今の東京芸大の
有名なピアノ科教授だったわけですが
戦後、GHQから勤務するようにとの
勧誘でもあったのですか。

 

ゴードン

いいえ、そうではありません。
私自身、両親が日本にいましたから
戦後日本に戻りたかったのです。

しかし簡単には入国できませんでした。
軍事関係者でなければ日本へ
渡ることはできなかったのです。

私はタイム・マガジン社で日本関係
を担当しており、何か日本へ行ける
機会がないかと情報を探していたのです。

そうしたら、FEA(Far Eastern
Administration)が日本語のできる人を
求めていましたので、応募し、採用
されました。

ですからこのFEAが私を日本に
派遣してくれたのです。

 

西

アメリカをお発ちになったのは。

 

ゴードン

一九四五年一二月のことです。

飛行機でニューヨークからホノルルなど
を経由し、一二月中旬に日本へ着きました。

 

西

最初からGHQの民政局に配属されたのですか。

 

ゴードン

はい、そうです。

私の肩書きは、正規には調査専門官
(Research expert)ということでした。

ただパス・ポートには、国務省が
間違って占領専門官(Occupation expert)
と記載していました(笑)。

 

西

ああ、そうですか。
そしてアメリカへ
お帰りになったのは。

 

ゴードン

一九四七年五月です。

 

西

民政局では、特にどんなことを
担当なさったのですか。

 

ゴードン

政治問題を担当していました。

 

西

それでは,憲法問題に
質問を移らせていただきます。

GHQでは、日本の憲法制定に当たり
いくつかの指導理念――日本の民主化
とか――があったと思いますが、特に
どんなことを念頭においていらっしゃ
いましたか。

 

ゴードン

それらの指導理念は、SCAP(連合軍最高
司令官)の方から下りて来ており、それに
もとづいて私たちは作業をしたわけで
最初から私たちの頭の中で考えたわけ
ではありません。

 

西

その上から下りてきたというのは、ポツダム
宣言とかSWNCC―—二二八といったものですか。

 

ゴードン

そうです。

女性の権利についての発案

西

ゴードンさんは,日本語ができるきわめて
少数の人ということで、あちこち資料探し
に出かけられたということですが、その辺
の事情についてお話いただけないでしょうか。

 

ゴードン

ホイットニーさんから命令が出されたとき
民政局には弁護士など何人かの法律の
専門家がいましたが、やはり憲法を作る
のであれば、何か規範になるものがなけ
ればと思い、私自身の判断で、あちこち
公立の図書館や大学の図書館をまわり
資料を集めてきました。

そしてそれらを私の机の上において
おいたところ、みんな「わー、いいね」
といって利用しました。

しかしそれは大枠を利用したということで
細かい点は勿論,私たち自身で考えました。

 

西

今、あちこちとおっしゃいましたが、
具体的にどんな所へいらしたか
覚えていらっしゃいますか。

 

ゴードン

とにかく早く仕上げなければならない。
極秘に事を運ばなければならないという
制約がありましたから、ジープを使って
一日であちらこちらの図書館をまわりました。

一箇所で多くの資料を収集すると目立つと
思いましたから、分散してまわったのです。

具体的にどこの図書館だったかは記憶に
ありませんが、東京都内であったことは
間違いありません。

 

西

ゴードンさんご自身は、憲法のどの部分
に関し、アイデアを出されたのでしょうか。

 

ゴードン

主に女性の権利について私の案を述べました。
私は小さいときから日本にいて、日本の
女性のことをよく知っていましたので
他国の憲法を参照したり、また自分の
経験に照らしたりして、これだけは憲法
に入れなければならないという案を
もっていました。

 

西

そうすると、今の憲法第一四条(法の
下の平等)とか第二四条(婚姻の自由、
家族生活における男女平等)は、ゴード
ンさんの発案にかかるものですね。

 

ゴードン

私自身は頭の中で考えたことをいくつか
の項目に分け、見出しをつけて、かなり
細かく書いたように思いますが、それを
運営委員会のほうで一般化し、整理して
原案ができあがったわけです。

徹夜の作業、日本側の立場でお手伝い

西

運営委員会とは、何度かディス
カッションをなさったのですか。

 

ゴードン

私が記憶している限り、一回だけです。

その際、私たちは、それぞれの担当者
がこれだけは絶対に重要だから、憲法
条項に入れなければならないという
ものをもっていれば、その理由を説明
しました。

たとえばワイルズさんは学問の自由の
重要性を力説し、私は女性の権利に
ついて説明しました。

私の意見は、すんなり受けいれられました。

 

西

運営委員会とのディスカッションに
ついてですが、運営委員会は何か
独特の案を持って、各委員会と
接していたのでしょうか。

 

ゴードン

いいえ、運営委員会はそのような案を
もっておらず、私たちが上げた案に
ついて,イエスかノー、あるいは何か
ほかにいい案がないか考えるという
方法をとっていました。

 

西

ゴードンさんは,たしか三月四日
から五日にかけての日米間の徹夜の
作業に参加していらっしゃいますね。

そのときの模様をお聞かせ願えない
でしょうか。

 

ゴードン

私がケーディスさんから呼ばれてその席
に加わったのは、実は通訳としてなのです。

私がそのミーティングに参加したときは
松本国務大臣はおりませんでした。

通訳として、アメリカ側からは、いま
の私の主人ともう一人おりました。

日本側からは二-三人出ておりましたが
かれらの通訳はそれほど早くありま
せんでした。

私の通訳は速かったので、私は日本側
に立って随分お手伝いしました。

朝の二時頃だったでしょうか。

私がかかわった女性の権利の
部分が出てきました。

日本側の反応はこの権利に対し
消極的でした。

私は、天皇の部分ではあんなに発言
していたのにと思って驚きました。

そのときケーディスさんが次のよう
に言ったのを覚えています。

『シロタ嬢は、女性の権利について
心をかためている。
もっと早くこれを通そうじゃないか』。

まあ、マ元帥の命令ですから、遅かれ
早かれ、憲法は制定されなければ
ならなかったわけですが、私がこのとき
貢献できたことといえば、通訳を通じて
ほんの少し時間を早めたということで
しょうか。

日本の民主化のために頑張る

西

日米の徹夜の折衝で、特に意見の対立
のあった箇所はどこだったでしょうか。

 

ゴードン

私は天皇の部分だったと思います。

それから私が関係した女性の権利に
ついて日本側の態度は硬かったですね。

そして戦争放棄については、このよう
な表現は日本語では難しいというよう
なことをいっていました。

ただし、戦争放棄は、言葉だけの問題
ではなく、その背後にある意味の問題
もあったと思います。

 

西

ちょっと、そのときの状況を
説明していただけませんか。

日本側からは佐藤達雄氏や白洲次郎氏
が、アメリカ側からはケーディス氏、
ハッシー氏、ラウエル氏などが参加
したわけですが,どんな具合に話し
合いがもたれたのですか。

 

ゴードン

机を真中にして向かい合っていました。

こちらには、今名前をあげられた人
たちのほかに、ルース・エラマンさん
が秘書としていました。

白洲さんは、あっちへ行ったり
こっちへ来たりしていました。

 

西

そうすると、アメリカ側からは
運営委委員会の人たちだけだった
わけですか。

 

ゴードン

はい。

オリジナル・ドラフトを書いた人
は参加していませんでした。

 

西

最後に全体の印象として、何か
ご記憶に残っている点があったら
お聞かせいただけないでしょうか。

 

ゴードン

私はこれだけは言っておきたいと思います。

民政局の人たちは、それは本当に
真剣にこの問題と取り組みました。

みんな自分のためではなく、日本国の
民主化のためを考えて作業をしていました。

 

 

「日本国憲法の誕生を検証する」ベアテ・シロタ・ゴードン、西修 インタヴュー 1

ベアテ・シロタ・ゴードン、西修 インタヴュー

「日本国憲法の誕生を検証する」

         西 修 駒沢大学法学部教授
          1986年 学陽書房

 

筆者は昭和59年から60年にかけて
アメリカへ留学の機会を得たが
日本国憲法の制定に関するアメリカ
側からの資料をできる限り多く収集
分析すること、当時GHQ(連合国
総司令部)民政局で,日本国憲法の
草案作成に携わった人たちからの声
を徴収してくることを、その調査
研究の一項目とした。

憲法公布40年目の今年,いろいろな
意味で節目を迎えているが,憲法の
『原点』を問い直してみたかったこと、
ならびにすでに実際ペンをとって
日本国憲法の草案作りに参画した人
たちの多くが高齢化し,ここで記録を
とっておくことは、貴重な歴史的資料
になるのではないかと思ったことなど
による。

しかし,ひと口に資料収集やインタ
ビューといっても、一カ所ですむわけ
がなく、アメリカのあちらこちらのみ
ならず,ヨーロッパにまで足を伸ばさ
なければならなかった。

それ自身,大変な調査旅行となったが
やはり文章ではうかがい知れない、
いろいろなことを知ることができ
それなりの成果を得ることができた。

以下、これらの人々とのインタビュー
をまじえながら、総司令部での日本
国憲法起草の状況を描写してみよう。

 

憲法改正の発端

マッカーサー元帥の命令

よく知られているように,マッカーサー
元帥が民政局に日本国憲法案の起草を
命じるにいたった直接の契機は、昭和
21年2月1日付け毎日新聞のスクープ記事
による。

この頃、松本国務大臣を中心とする憲法
問題調査委員会の審議も大詰めにきており
たまたま委員の一人宮沢俊義(東大教授)
の筆にかかる案が毎日新聞の西山記者に
よりスクープされたわけである。

したがってスクープされた案は,憲法
問題調査委員会で討議された主要な案
ではなかった。

もっとも宮沢案は、それまで討議されて
いた内容をまとめたものなので、全く
的はずれのものでもなかった。

総司令部は、新聞に掲載された憲法改正
案を直ちに英訳し,その内容を検討した。

その結果、同案は本質的に明治憲法とほ
とんど変わらず、とてもこのようなもの
は受け入れられないと判断した。

民政局ホイットニー准将は,この改正案
の内容を分析したのち、2月2日、次の
ような覚え書きを最高司令官宛、提出した。

「この改正案は、きわめて保守的性格
の強いものであり、主権は天皇に与え
られており、天皇の地位について実質的
に変更を加えておりません。

(中略)私は、憲法改正が正式に提出
される前に彼らに何か指針を与える方が
われわれの容認し得ない案を彼らが作成
して、われわれに提出してしまってから
最初からもう一度やり直しを強制する
よりも、戦術としてより優れていると
考えます。」

マッカーサーは、このような毎日新聞
に掲載された日本国憲法改正案がホイ
ットニーの覚え書き等を読み、また来る
2月26日に発足することになっている
極東委員会の設置(同委員会ができると
マ元帥の発言権が制約される)のこと
なども考慮した結果、2月3日、民政局
長ホイットニーを呼び、日本国憲法草案
を民政局内で作成するよう命じた。

このとき、マッカーサーは、黄色い紙に
書いたメモを示し、細部は民政局に委ね
るが、これらの条項だけ入れてほしいと
伝えた。

これがいわゆるマッカーサー・ノート
またはマッカーサー三原則といわれる
ものである。

すなわち、そこには、
①天皇は国家元首の地位にあり、その
機能は憲法に基づき、また国民意思に
応えるものであること、
②国権の発動としての戦争放棄、
③封建制度の廃止および予算の型は
英国に倣うこと、
が記されてあった。

この三原則については,もっと多かった
ように思うとハウゲは筆者に語った。

ハウゲによれば、たしか一院制の原則
までも掲げており、六点ぐらいでは
なかったかという。

これに対して、リゾーは、一院制は
原則の中に入っていなかったはずで
あり、ハウゲの記憶違いであろうと
述べている。

このノートそのものがあればはっきり
するのであるが、現在、発掘するのは
不可能のようである。

というのは,リゾーが筆者に語った
ところでは、ケーディスがこのときの
メモをしばらく保管していたが、ホイ
ットニーの没後、「これはあなたの
お父さんのものだ」と言って、ホイッ
トニーの子息に返却した。

その後、ケーディスは,このメモの
ことを思い出し、ホイットニー二世に
「あのメモを見せてほしい」
と言ったところ、同二世は「引っ越しの際
失くしてしまった」と答えたそうである。

もしホイットニー二世が同メモの重要性
を認識していたら、もっと大事に保管
していたことであろう。

マッカーサーからの命令を受けたホイッ
トニーは、当直将校であったハッシー海軍
中佐にその命令の内容を打ち明けた。

このよきの模様を当時民政局次長で,
憲法案作成に主要な役割を演じたケー
ディスは、次のように語ってくれた。

「それは、2月3日、日曜日のことでした。
ハッシー中佐から私のホテルに電話がかか
ってきて、今朝、ホイットニー准将がマッ
カーサー元帥より、民政局で日本国憲法案
を作成するよう命じられたということでした。

私は、ハッシ―中佐に,ラウエル陸軍中佐
に連絡するよう頼み、三人で明日以降どう
すべきか相談しようと言いました。」

その後三人は寄り集まり、自分たちが運営
委員会を構成すること、民政局員を項目
ごとにいくつかのグループに分け、ここで
案文を作らせ、運営委員会と協議しながら
最終案を煮詰めていく方法をとっていくこ
とを確認した。

こうして、次表で示すようなリストを作り、
翌4日の朝、ホイットニーの了承を得て
実施に移された。

〈運営委員会〉
=チャールズ・L・ケーディス陸軍大佐、
アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐、
マイロ・E・ラウエル陸軍中佐、
ルース・エラマン嬢

〈立法権に関する委員会〉
=フランク・E・ヘイズ陸軍中佐、
ガイ・J・スウォウブ海軍中佐、
オズボン・ハウゲ陸軍中尉、
ジェルトルード・ノーマン嬢

 

〈行政権に関する委員会〉
=ピーター・K・ロウスト陸軍中佐、
ハリー・E・ワイルズ氏、
ベアテ・シロタ嬢

 

〈司法権に関する委員会〉
=マイロ・E・ラウエル陸軍中佐、
アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐,
マーガレット・ストウン嬢

 

〈地方行政権に関する委員会〉
=セシル・G・ティルトン陸軍中佐、
ロイ・L・マルコム海軍中佐,
フリップ・O・キーニー氏

 

〈財政に関する委員会〉
=フランク・リゾー陸軍大尉

 

〈天皇・条約・授権規定に関する委員会〉
=ジョージ・A・ネルスン陸軍中尉、
リチャード・A・ブール海軍少尉

 

〈前文〉
=アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐

 

〈秘書〉
=シャイラ・ヘイズ嬢、
エドナ・ファーガスン嬢

 

〈通訳〉=ジョセフ・ゴードン陸軍中尉、
I・ハースコウィッツ陸軍中尉

 

右の(上の)組織表のうち、筆者は
ケーディス、ハウゲ、エスマン、シロタ、
ティルトン、リゾー、ブール、ネルスン
の諸氏とインタビューをし、またこの表
には入っていないが、のちほど来日し
日本訳をチェックしたジョン・マキ
(最近アムハースト大学教授を定年退官)、
民政局国会課長として、日本の新しい
国会作りに尽力したジャスティン・ウイ
リアムス、前文および憲法九条の和文
英訳を担当したA(匿名を希望)、
民政局に席をおいたマーセル・グリリの
諸氏、さらに日本国憲法の制定過程に
詳しいセオドア・マクネリー(メリー
ランド大学教授)、
ロバート・ウォード(スタンフォード大教授)、
ハンス・ベアワルド(カリフォルニア大学
ロスアンゼルス校教授)といった学者
にもインタビューを試みた。

 

② 総司令部内で作られた憲法制定会議
二月四日、民政局の局員は
朝鮮部門担当者を除いて
全員一室に呼び集められた。

ホイットニー局長が、おもむろに
次のように述べた。

「民政局は、これからの一週間、憲法
制定会議として集会することになるだろう。
マッカーサー元帥は、日本国民のため
に新憲法制定という,歴史的意義の
ある任務を民政局に委託された。」

この会合に出席した面々は、このホイ
ットニーの言葉に驚き、一様に興奮した。

何人かの感想を紹介する。

エスマン
「そのとき私は非常に興奮し,また大変
挑戦的だと思いました。
しかし同時に私は、このようなことは
不幸なことだと思いました。
というのは,外国人のグループによって
起草された憲法は正当性をもち得ない
と思ったからです。
私は、民主主義に同調的な日本の有識者が
招集されないで、私たちが招集されたこと
に大きなショックを受けました。
しかもわずか十日間で仕上げたわけ
でしょう。
私はこのような大仕事を民政局で行う
のは間違っていると上申しましたが
何しろ若輩で、一介の地区軍中尉の
意見です。
採用されませんでした。」

ハウゲ

「もちろん、興奮を覚えましたが、他方
私には憲法作りをするバックグラウンド
をもっておりませんでしたので、不安
でした。
民政局以外に,それに相応しい資質を
持った人は何人もいるのにと思いました。」

リゾー
「確かに歴史的な仕事であり、興奮しました。
と同時に私たちがその任務を行うよう
選抜されたことに誇りを感じました。
また私たちはそれをやり遂げる能力が
あると思いました。
私について言えば、自信がありました。」

こうしてみると、ここに出席した人びと
は、日本の憲法案を作ることにそれぞれ
の感慨を抱いていたわけである。

ケーディス自身、前日にこの方針を打ち
明けられたとき、次のような感想をもった。

「正直言って、大変挑戦的であり、また
とてもむずかしい作業になるだろうと
思いました。
なぜなら、私たちの手もとには、役に立ち
そうな資料が非常に少なかったからです。」

さて、ホイットニー局長は10分ぐらい状況
説明をしたあと退席し、ケーディス次長が
座長となり、グループ分けや作業上の心得、
今後の進行方針などにつき討議が行われた。

グループ分けは、前記の組織表の通りであり
また作業上の心得として、草案,ノート類は
すべて「最高機密」にし、暗号を用いたりして
作業のすべてにわたり秘密を厳守することなど
が申し合わされた。

しかし、この秘密厳守は、必ずしも維持され
なかったようである。

ティルトンの言葉を信ずれば、A嬢などは、
自分たちのやっていることをぺらぺら漏らし、
またそれをみてにやにやしていた人間が
民政局内部にいたということである。

これが事実であるとすれば、今までの
通説(秘密が厳守されていたこと)とは
異なり、いったいどの範囲まで秘密が
知れ渡っていたのか、興味がもたれる。

ケーディス座長を中心に自由討議が
行われていたとき、ブール海軍少佐が
戦争放棄条項にクレームをつけた。

このような条項は非現実的ではないか
と言おうとしたのである。

ブールの証言
「私は、戦争放棄条項に待った
をかけようとしたのです。
そうしたらケーディス大佐が
私に向かって言いました。
『この条項はどこから出て来た
のか知っているかね』
私は『いいえ,知りません』と答えました。
大佐は『元帥からだよ。これ以上何か
言う必要があるかね』
と言いましたので、私は即座に
『ノー・サー』と返答しました(笑)
それでこの会話は打ち切りになりました。」

連合軍最高司令官マッカーサー元帥の
権威の偉大さを物語るエピソードと
言えよう。

③ 資料探し
ケーディスが感想でもらしているように、
一国の憲法を作成するには、資料が不足
していた。

このとき、重要参考文献として、ケーデ
ィスらの幹部の座右におかれていたものに、
ポツダム宣言とSWNCC(国務・陸軍・
海軍三省調整委員会)――二二八文書がある。

このうち,ポツダム文書については説明の
要がないものと思われるので,SWNCC——
二二八文書について若干説明しておきたい。

同文書は,昭和二一年一月七日にSWNCC
で承認、一一日に合衆国太平洋軍最高司
令官(マッカーサー元帥)に「情報」
(インフォメーション)として送付された。

表題が「日本統治体制の改革」となって
いることからもわかるように,日本政治
のありかたについて、SWNCCの考え方を
マッカーサー元帥に示したものである。

憲法との関連では,天皇制を明治憲法
体制のままの形で残しておくことは、
承認できないものとしながら、天皇制
廃止の場合と存続の場合のいずれをも
想定し、天皇制存続の場合の民主的コ
ントロールの諸方策を指示している。

また、国民代表性、予算制度、基本的
人権の保障、憲法改正などについても
民主化の方向から基本方針が与えられ
ている。

このように、SWNCC――二二八は、新
憲法のガイド・ラインを示すものであ
るが、ジャスティン・ウイリアムスは
この文書の存在を高く評価する。

「マッカーサー元帥は、このSWNCC——
二二八をポケットの中に入れていたから
こそ、GHQで日本の憲法を作成し得ると
考えたのです。

もしこの文書がマッカーサー元帥の手
もとになかったら、元帥がその決断を
下し得たかどうか疑問であるとさえ言
えます。」

しかし、SWNCC——二二八文書は、あ
くまで基本線が示されているだけで、
具体的内容まで記載されていなかった。

そこで各国憲法を入手したり、いくつ
かの関係資料をそろえることが必要に
なったが。

ここで大活躍を演じたのが,
ベアテ・シロタ嬢である。

同譲は,その後,民政局に通訳として
勤務していたジョセフ・ゴードン陸軍
中尉(前記組織表参照)と結婚、現在
はアジア財団ディレクターとして、
八面六臂の働きをしている。

このとき二二歳の若さであった。
お父さんが東京音楽学校(現在の東京
芸術大学)の有名なピアノ科教授、レオ
・シロタで,彼女は五歳のときに来日、
約十年間日本に滞在した。

高等教育を受けるためにアメリカへ渡り
カリフォルニア州の名門女子大学である
ミルズ大学を卒業。

その後タイム誌、外国経済局に勤務。

戦後GHQの募集に応募し、採用され、
再び両親のいる日本の地を踏んだ。

以上の略歴からもわかるように、日本語
もよく理解でき、東京の地理にも詳しか
ったので、資料探しには、うってつけで
あった。

同女史はそのときの状況を次のように語る。
「ホイットニーさんから憲法案を作るよう
命令が出されたとき、民政局には弁護士
など何人かの法律家がいましたが、やはり
憲法を作るのであれば、何か模範になるも
のがなければならないと思いました。

そこで私自身の判断で、ジープに乗って、
東京都内の公立図書館や大学の図書館から
各国の憲法を集めてきました。

あちこち回ったのは、一カ所だけですと
怪しまれると思ったからです。

こうして収集して来た資料を机の上に
置いておいたところ、みんな『わー、
いいね』といって盛んに利用しました。」

 

2 各章案の作成

③ 基本的人権
基本的人権の条章中、ゴードン女史は
主に女性の権利を担当した。

同女史は,述懐する。
「人間の章は,民政局で政治関係を
担当していたロウストさん,ワイズ
さんと一緒に仕事をしました。
日本の『民主化』が至上命令でした
から、私は女性の立場からこの問題
に取り組みました。
ご存知のように、私は小さいときから
日本に住んでいましたので、自分の体
験を踏まえて、又各国憲法の規定を
参照しながら、条文作りに励みました。
最初、これだけは憲法に入れたほうが
よいと思われるものをいくつかあげ
その後運営委員会の人たちと協議を
して、より簡約なものにしました。」

同女史は、具体的にどの条項をどんな
ふうにしたかまで覚えていないと言っ
ていたが、ハッシー文書(第一次案)
およびラウエル文書(第二次案)によ
れば、以下のような条項が考案された
ことが記録されている。

まず第一に、家庭と婚姻に関し、次の
ような条項が出された。

「第十八条 家庭は、人間社会の基礎
であり、その伝統は、善きにつけ悪しき
につけ,国全体に浸透する。
それゆえ、婚姻および家庭は、法律の
保護を受ける。
婚姻および家庭は,両性が法的にも
社会的にも平等であることは争う余地
のないこと、親の強制にではなく相互
の合意に基づくものであること、なら
びに男性の支配にではなく両性の協力
に基づくものであることを、ここに定める。

これらの原理に反する法律は破棄され
それに代えて、配偶者の選択,財産権、
相続、住居の選択、離婚並びに婚姻
および家庭に関するその他の事項を
個人の尊厳と両性の本質的平等の見地
から定める法律が制定されなければ
ならない。」

この規定などは、旧民法下の「家」
制度における戸主権、親権、男子優先
に対する反省から出ているものである
ことはいうまでもない。

「第十九条 妊婦および乳児の保育
に当たっている母親は、既婚である
と否とを問わず、国の保護および
彼女たちが必要とする公の扶助を
受けるものとする。

嫡出でない子は、法律上不利益に
取り扱われてはならず、その身体的、
知的および社会的成長について、
嫡出の子と同一の権利と機会を
与えられるものとする。」

「第二十条 夫と妻の両者が生存
している場合は,両者の明示の合意が
なければ,養子が家族に迎え入れられ
ることはない。
また、養子は、家族の中で優先的な
取り扱いを受け、家族の他の構成員に
不利益を与えてはならない。
長子単独相続権は、ここに廃止する。」

これら二カ条は、妊産婦や非嫡出子の
保護、養子の取り扱い、長子単独相続権
の廃止を謳っており、大きな意義をもつ
ものであるが、運営委員らとの協議に
おいて、最終的には,憲法規定として
組み込まれなかった。

ラウエル文書には,ロウスト、スウォウプ、
ワイルズらのやりとりが記されている。

それによれば,ロウストは、
「現在,日本においては、婦人は
いわば動産である。
非嫡出子が父親の単なる気まぐれに
よって嫡出子に優先することもあるし
また農家は米の作柄が悪いときには
娘を売ることもあり得る。」

といったのに対し、スウォウプは、
「乳児を保育している母親や養子に
ついての保護の詳細を憲法の中に書き
込んだとしても、国会がそれを補完
する立法を通過させない限り、事態は
改善されないのではないか。」
と疑義を呈した。

ワイルズは、その見方に同意したが
「われわれは、日本政府に、これらの
事態をちゃんと記録に残させるように
すべきである。」
と熱弁をふるった。

このほか、義務教育の無償、奨学金の
援助、私立学校の保護、学校教育に
おける民主主義、自由、平等、正義、
社会的義務の強調の必要性、児童・
青少年の解雇の制限、児童に対する
医療の無料化、休息、リクリエーシ
ョン、体育教育の付与、生活権、
男女同一賃金の保障、国民の福祉増進、
公衆衛生、平和的スポーツの奨励、
社会保険制度の保障、児童、女性など
の社会的弱者に対する特別保護、勤労
者の休養、余暇の享受、団体交渉、
ストライキ権の保障、土地および天然
資源の国有化、見苦しくない程度の
生活保障など盛り沢山の社会権規定を
設けていた。

これらの社会権規定の挿入について
理想を憲法に書いても余り意味がない
とする運営委員会側と日本社会に革命
をもたらす必要があるとする人権に
関する委員会との間に論争が展開し
ついにホイットニー局長の決裁を仰ぐ
ことになった。