戸籍と「日本人」の歴史を考える 遠藤正敏 2017年8月 戸籍16

戸籍と「日本人」の歴史を考える
  〜家と国家をつなぐ戸籍〜
       

 報告 遠藤正敏(早稲田大学台湾研究所)
  「Voice」220号 2017年11月〜12月号

 

1 戸籍とは何か?

国家は統治上、個人の身分登録を
必要とするものである。
身分登録の目的とされるのは、
個人の識別、家族関係の確認、
権利の保障、治安の確保などである。

戸籍はそうした国家による身分登録
の一種である「日本国民」の出生、
死亡、婚姻、離婚などについて、
「戸」を単位として登録するところ
に特徴がある。

世界広しといえども、日本の
戸籍制度は唯一無二である。
中国の現在の「戸籍」は、正確には
「戸口登記」であり、実質的には
居住登録である。
後述のように、台湾にも戸籍法がある
が、「世帯」を単位とする登録である。
韓国は、かつて戸籍法が存在したが、
2008年に廃止された。

日本の戸籍のもつ三代原理として
あげられるのは、

一、「家」
二、「日本人」の登録
三、「臣民」の登録

である。
三については、天皇と戸籍の関係
を考えれば納得するであろう。
天皇・皇族はあくまでも戸籍の
上に立つ存在である。
戸籍の編成の基準になる「氏」
を天皇家はもたない。
古代国家において人民の氏(ウジ)
および姓(カバネ)は天皇からの
賜り物であった。
現在でも、非皇族との婚姻した皇族
女子が皇籍を離脱し、戸籍に入る
ことを「臣籍降下(降嫁)」というよう
に、戸籍の本質は「臣民簿」なのである。

 

2 近代以前の戸籍制度の変遷

①古代日本における戸籍古代国家
において戸籍の役割は、現在とは
異なるものであった。
徴兵、徴税、課役のため人民を資源
として把握する目的から国家は戸籍
を作成した。
また、浮浪人の取締まりなど警察的
な目的もあわせ持っていた。

戸籍は中国(唐)で発祥し、やがて
朝鮮、日本にも伝播したと考えられ
ている。
「正史」とされる『日本書紀』
(720年)には、崇神帝元年(3C後半?
)に、人民の戸籍を作り、懲役を
課したとの記述があるし、恭帝4年
(5C?)には、豪族たちの氏姓を正す
ために「盟神探湯(くがたち)」
(熱湯に手を入れさせて火傷を負えば
有罪とする神明裁判)をしたとの記述
がある。
だが、これらの記述の真偽のほどは
不明である。

7世紀後半、日本で律令国家が建設
されていくなかで、朝廷は全国統一
の戸籍を編成した。
それが、670年の庚午年籍(こうご
ねんじゃく)であり、690年の庚寅
年籍(こういんねんじゃく)である。
豪族以外の「臣民」を「良民」
「賎民」とに区別し、天皇から授与
された「氏」「姓」を記録した。
班田収授法の実施において、人民に
租税や労役を課すための記録台帳
として利用されたが、8世紀に有力
貴族や寺社による土地の私有化が進み、
公地公民の公民の原則が崩れていった。
このため、土地との結びつきを
失った戸籍も形骸化し、平安後期
から統一戸籍は編製されなくなって
いった。

 

②近世封建社会の戸籍ー定住社会の理想

戸籍が国家の制度として息を吹き返す
のは、徳川幕府による封建時代である。
戦国の乱世を収めた16世紀後半の豊臣
政権では、兵農分離政策が行われ、
武士優位の身分秩序に基づく封建社会
の基盤が築かれた。

この後を受けた徳川幕府は「宗門人
別改」を実施した。
 寺請制度 民衆はみな一つの寺の
 信徒になり、檀那寺からキリスト
 教徒でない証明(「寺請証文」を
 受ける=寺請制度
 →「宗門人別改帳」は「人別帳」
 に一本化されていった。

この人別帳が江戸時代の「戸籍」に
相当するものである。
人別帳は、家屋ごとに居住者について、
名前、性別、年齢、出生地、戸主との
身分関係(女房、下女等)、職業など
を記録した人口台帳である。
ただし、人口統計としては不完全であった。
第一に、武士や公家や僧侶は登録から
除外されていた。
武士はその代わりに各藩で作成される
「分限帳」に登録されていた。
第二に、行商人、芸能民、宗教者など
移動を日常と非定住者は登録漏れと
ならざるを得なかった。
寺院が幕府の戸籍政策の出先機関に
  →仏教勢力の政治的延命に
   つながったといえる。

封建社会のアウトローとして語られる
のが、「無宿」である。
「無宿」は人別帳に乗らない者であり、
今でいえば「無戸籍者」ということになる。
家長などによって勘当となったものは
「帳外れ」(人別帳からの抹消)となり、
一切の縁を切られ、「無宿」として社会
から除外され、幕府権力から「厄介者」
として摘発の対象となる。
「帳外れ」にされるのは、主に放蕩や
犯罪が原因であったようである。
「無宿」は疎外感の極みから火付や
盗っ人に走るものも多く、摘発されたら
佐渡鉱山に送られて 懲的に労働させら
れたり、人足寄場に収容されて矯正された。

また、農村において五人組が創設された
のは周知のとおりである。
これは、治安維持、年貢徴収、キリシ
タン検索を目的として、五世帯ごとに
相互監視させて連帯責任を負わせる
制度である。
五人組ごとに「五人組人別帳」が作成
され、組の内部で監視と出入り等を
記録した。
これは戸籍を補完するものといえ、
まさに村落における監視社会化であった。

 

③戸籍のもつ統合原理ー定住型血縁社会による国民国家
戸籍制度が古代から日本に存在し
続けてきた点について想起されるのが、
「稲作国家」のイデオロギーである。
これは、日本は米の司祭である天皇
が「天照」等の祖神に収穫を捧げる
「瑞穂の国」である、とする記紀
神話に由来している。
このイデオロギーの根底にあるのは、
定住し、家族一体で農耕に従事する
共同体を建国の理想に掲げる農本
思想(3)であるといえ、「日本人」
をめぐる単一民族信仰の基礎ともなった。

戸籍は、まさしく定住型農耕社会ー
個人主義による移動を抑止、定着・沈静
の志向ーに適合した制度である。
これを理解していたのが、18世紀前半に
朱子学者で、かつ徳川幕府のブレーンを
も務めた荻生徂徠である。
徂徠は幕府に献上した『政談』のなか
で、今こそ『治の根本に返る」こと、
すなわち「法を立直す」必要があり、
「治の根本は兎角人を地に付(つく)
る様にする事」であり、それには「戸籍」
の整備が不可欠だ、と述べていた。

 

 

 

3 近代日本の戸籍ー「日本人」の登録へ

①壬申戸籍の誕生ー「臣民簿」としての戸籍
幕末の動乱の時代、脱藩・脱籍者が
続出し、戸籍は瓦解に陥っていた。
明治期になって戸籍は「臣民簿」と
いう精神的価値が付され、生まれ
変わった。

明治維新を迎えた日本は、「王政
復古」としての近代国家建設に歩
を進めた。
『古事記』および『日本書紀』
(「記紀」)に基づく建国神話に
よって天皇を神格化するものであった。

1871年4月に太政官布告第170号が
交付され、「全国総体ノ戸籍法」
(同布告前文)として壬申戸籍の
制定が告論された。
その前文には、「戸籍人員ヲ詳ニ
シテ猥ナラサラシムルハ政務ノ
最モ先(さきん)ジ重(おもん)
スル所ナリ」、「其籍ヲ逃レテ
其数ニ漏ルルモノハ其保護ヲ受
ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ
近シ」と述べられていた。
すなわち、戸籍の編成は政治の
最も重要な事業であり、人は戸籍
に登録された初めて「国民」として
国家に保護される、というものである。
そして、第1則には「臣民一般」
(華族・士族・僧侶・平民まで)
を、「其住居ノ地ニ就テ之ヲ収メ
専ラ漏スナキヲ旨トス」と規定
された。
日本に居住するものを身分にかかわ
らず、すべて天皇の「臣民」として
登録するものであり、これぞ法的
意味での「元祖日本人」を規定した
ものであった。
鎖国以来、日本領土の住民=血統的
「日本人」、というナショナリティ
の意識(信仰?)が定着していたこ
とも反映していよう。

そして、戸籍を通して「一君万民」の
国家像が表象されるものとなった。
つまり戸籍に登録されたものは全て
天皇の「臣民」として統合される、
日本の近代国民国家としての出発で
あった。

全国統一戸籍が成立し、戸籍に載ら
ないもの=定住しない者=「臣民」
として帰服しない者=「まつろわ
ぬ者」という図式が生まれていった。
日雇い燈籠者、行商人、水上生活者、
遊芸人、山伏、サンカといった戸籍
に登録されず、国家の谷間を生きる
非定住者も少なくなかった。

 

②戸籍による「差別」の再生産ー
国籍の内側に様々な境界線
戸籍は「国民登録」であるが、
両義性をもつものである。
すなわち、「日本人」としての包摂
という建前と、「日本人」内部での
序列化・差別という本音とが併存
している。

明治政府は「御一新」のスローガン
として「四民平等」を掲げた。
その実践として、1870年にそれまで
禁じられていた庶民の苗字使用が
許可され、1875年に苗字は義務
となった。
だが、戸籍上は「華族」「士族」
「平民」という封建時代の身分に
基づく「族称」が記載された。
被差別部落出身者は「新平民」
「元穢多」などと記載されること
があり、差別は歴然として残った。
さらに。「大和民族」の外部に
あったアイヌ、琉球人は、北海道
は1871年、沖縄は1880年にそれぞれ
壬申戸籍が施行され、「日本人
(内地人)」に編入された。
形式上は「臣民」として水平化され
たかにみえて、アイヌは戸籍上に
「旧土人」と表記されたりもした。

その他にも、婚外子は「私生子」
「庶子」が法律用語であったため
戸籍にも続柄欄にそれらが記載され
たし、「棄児」「前科」「療養所・
刑務所で出生」などといった情報も
記載された。
その上、戸籍は1976年まで公開が
原則で、誰でも閲覧可能であった
ため、社会に差別を再生産していった。

 

4 家と戸籍ー「国体」の概念をつくるもの

①制度としての「いえ」
 ー「家」とは「戸籍」なり

日本における古来からの「いえ」と
いうのは、同じ住居に暮らし、同じ
家業を営み、家産を共有する集団で
あった。
「いえ」すなわち「いへ」の「へ」
は「へっつい」すなわち「かまど」
の意味である。
つまり「いへ」は、炊事を共にする
生活共同体ということである。

制度としての「家」はまた異なる。
明治政府は国家の基本単位として
重視した「家」は、1898年7月に施行
された明治民法、そして戸籍法に
よって形作られたものである。
ここでの「家」は、戸主の支配下に
ある親族集団である。

明治民法の第732条に「戸主ノ親族
ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ
之ヲ家族トス」とあるが、民法上に
いう「家」とは「戸籍」と同じ意味
である。
同居しているか否かは関係なく、
まさしく戸籍上の「家族」である。
第733条第1項「子ハ父ノ家二入ル」、
第788条「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ
入ル」とあるのも「家」=「戸籍」
と考えてよい。
戸籍は概念的な「家の登録」として
再定義されたのである。

加えて、第746条に「戸主及ヒ家族
ハ其家ノ氏ヲ称ス」と規定され、
個人名は家名としての「氏」へと
統合された。
かくして、この世に生まれてから
一つの「家」に属する=一家一氏が
「日本臣民」の本分とされるに至った。

古酒は、家の君主として民法上に
強い権限が規定された。
それは、家族の婚姻、養子縁組など
に対する同意権、離籍権、復籍拒
絶権などであった。
要するに、誰を「家族」とするかを
決定する最高の権限を持つのが戸主
であった。

戸主は祖先の祭祀をつかさどる
役目を合わせ持っていた。
家督相続とともに系譜、祭具、墳墓
を継承することが明治民法で定められ、
現行民法でもこれは同じである。
いうなれば、戸主は家において祖先
と子孫を結ぶ紐帯(祖孫一体)を
取り持ったのである。

 

②日本における家族国家の思想
近代日本の国家観は独特の
「家族国家思想」に支えられていた。
穂積八束などが代表的な
イデオローグであった。
それによれば、国は家の延長で
あり、国の縮図が家である。
国の「家長」としての天皇は、
「赤子」としての「臣民」との
間に擬似的な親子関係が育まれる。
そして、皇室ー臣民の関係は、
宗家ー分家の関係である。
こうしたアナロジーによって家の
思想と天皇崇拝が接合され、
学校教育において普及されていった。

日本を含め、東アジアの伝統的な
家族観は、親子が基礎であり、
血縁が尊重される。
これに対して西洋の伝統的な
家族観は、夫婦が基礎であり、
個人が尊重される。
したがって、親子という縦に
関係が重視される東アジアでは、
とりわけ祖霊崇拝の信仰が強くなる。

この祖霊崇拝が国民教化のため
に政治的に利用された。
天皇の正統性が「万世一系」つまり
天照をはじめとする祖神との連続性
にある、として1890年の教育勅語は
その典型である。

この皇統になぞらえ、先祖との連続性
=祖孫一体が守るべき家の価値として
強調されると、「家の系譜」となる
戸籍が重要となるのである。

これについて、1891年1月29日貴族院での
三浦安議員が次のように発言している。
「日本の戸籍法を重んじますものは
之は日本の慣習上に於て誠に大事な
ことで即ち御国体上から云ひまして
血統を貴び戸主を重んずると云ふこと
は仰々日本開闢以来の慣習」。
すなわち日本の「国体」を支えるもの
が戸籍であるという認識である。

こうした家族国家思想が教化された
背景として、明治20年代から日本は
工業化・都市化の進行により、農村
から都市への出稼が増加し、資本主義
社会へと向かいつつあった。
そこで発生する家族の分離。
故郷の喪失。
都会の疎外感とともに、退廃的な
個人主義が社会に蔓延していく
懸念が支配層にあったのだろう。
そこで、日本人の国家意識を醸成
するため、家を基軸とした国民の
再統合を推し進めようとしたのである。

 

 

4「日本人」の血統と戸籍

①戸籍と国籍の一体化=家の「純血主義」
家(戸籍)は日本人でなければ
属し得ない空間である。
1898年に施行された明治31年戸籍法
は、重大な原則を明文化した。
戸籍の「純血主義」である。
すなわち、第170条第2項には
「日本ノ国籍ヲ有セザル者ハ本籍ヲ
定ムルコトヲ得ズ」と規定された。
「日本人」でなければ、本籍を持つ
ことができない、というわけである。
その1年後の1899年に広布施行された
国籍法は、父系血統主義が原則で
あったが、家の原理に規律される
内容であった。
日本人との婚姻、養子縁組、入夫
婚姻などにより日本の家に入った
外国人は「日本人」となるのであった。
まさしく戸籍上の「血統」は擬制化
されるのであるが、戸籍に記載される
のは「日本人」のみであるという原理
は動かない。
かくして、「戸籍=国籍=国民」の
公式が成立し、戸籍への登録は
「皇国臣民」としての統合に帰する
ものとなった。

 

②戸籍で決まる「民族」のカテゴリー
日本の植民地は、適用法の異なる領土
である「外地」とされ、従来の日本の
領土(北海道、沖縄を含む)である
「内地」と法的・行政的に区別された。

ことに慣習の相違から、戸籍法は内地
・朝鮮・台湾とで区別され、「大日本
帝国」の中で内地戸籍/朝鮮戸籍/台湾
戸籍という三通りの戸籍が存在すること
になった。
これにより、戸籍が内地/朝鮮/台湾の
どこにあるかによって「内地人」
「朝鮮人」「台湾人」が決まるという
構造になった。

1920年代から内地ー外地間でも人の
移動が拡大し、「内鮮結婚」「内台
共婚」が増加していった。
そこで、異法域間の戸籍処理を行う
ための法律として、1918年に
「共通法」が制定された。
同法に基づき、婚姻や養子縁組等に
より内地ー朝鮮ー台湾の間で本籍を
移動すると「民族」も変換すること
となった。
例えば、内地人が朝鮮人と婚姻した
場合、内地の戸籍を出て朝鮮の戸籍
に入るので、朝鮮人となるわけである。

日本の植民地統治においては、生物
学的血統に基づく支配から、「家」に
媒介された擬制的血統による支配へと
傾いていくのである。

異法域・異民族を一体化して「国民
帝国」へと統合する思想が家族国家
イデオロギーであった。
「万世一系」の皇統を継承する
「現人神」天皇が究極の「家長」と
して治める「家」が日本であり、
異民族も日本という「家」に入ること
で「赤子」として包摂され、「皇化」
が達成される。
これがさらに対外的に拡大されたの
が、「大東亜共栄圏」のイデオロギー
であった「八紘一宇」である。

そうした家族国家思想も、戸籍に
ついてみれば、ダブルスタンダード
であったのがわかる。
戸籍を植民地と内地とで隔離しつつ、
「天皇の赤子」として包摂するという、
制度的な「差別」と精神的な「同化」
という両刀の使い分けであった。

現実には、内地ー植民地の間で
混血が進んでいた。
だからこそ、内地と植民地とで戸籍
は峻別することで、支配民族ある
「日本人」の「純血」が極力、維持
されるという心理的保障を得ようと
したのであろう。
こうした意識の根底にあるのは、壬申
戸籍を源流とする内地戸籍こそが
「正統なる日本人」の証しであるという、
いわば戸籍原理主義である。

 

 

5 現在の戸籍制度の矛盾

1945年8月の日本の敗戦は従前の
国内法制度を大きく変革した。
いわゆる民主化による家制度の
廃止はその典型であろう。
いうまでもなく、それを明文化した
のは、日本国憲法24条第1項である。
家の思想と一体化していた教育勅語
も失効とされた。

しかるに、占領改革の下で戸籍制度
は生き残った。
1948年に施行された新戸籍法(1947年
法律第224号)では、戸籍は三代戸籍
から「夫婦と非婚の子」を単位とする
形式に改められた。
だが、「氏」を軸にしてひとつの戸籍
が編製される点(夫婦同氏)や出生届
に「嫡出」「非嫡出」を記載させる点
は変わらなかった。
ここに家制度の残滓は明らかにあり、
前者について憲法学者の宮澤俊義が
「国敗れて氏あり」と述べたことは
知られている。

 

 

6戸籍がない日本人とは

①無戸籍と無国籍のちがい
「無戸籍」と聞いてこれを「無国籍」
と混同する人が多いことに気づかされる。
戸籍はあくまで「日本国籍を持つもの」
の証明である。
「無戸籍者」とは「日本人」と推定
されるもの(親が日本人)で戸籍に
記載されていないものを指す。
したがって、無戸籍イコール無国籍
ではない。
2015年現在、国内に1万人以上の無
戸籍者があるとの見解もある。

今も政府は無戸籍者を「無籍者」と呼ぶ。
これは明治以来、使用されてきた言葉
であり、「公的な帰属のない者」という
卑下の要素も含んでいると考えられる。
「籍」は日本独特の観念で、ほぼ翻訳
不可能な言葉ではないか。

無戸籍が生まれる原因は何かというと、
出生届の未提出が大半である。
とりわけ現行民法第772条「300日」
規定に起因したケースは知られていよう。
また、前述のように戸籍法第49条に
ある、出生届における「嫡出」「非嫡出」
の記載義務に抵抗を覚えてそこを記載せず、
出生届が不受理になったケースもある。

無戸籍者が戸籍を創設するための蹴籍
の手続きは、家庭裁判所の審判におい
て「日本人」の子である事実を立証し
なくてはならず、相当にハードルが
高くなる。
一方、日本で生まれた(発見された)
「棄児」として認定された子は、血統
を問うことなく戸籍が創設され、
「日本人」の地位を得る。
日本においては例外的な地縁による
「国民」創出の制度である。

 

②戸籍がないことは「悲劇」なのか?
無戸籍によって何か生活上の支障
になるのか。
結論をいえば、法制度上の不利益
よりも、社会の同調圧力が無戸籍者
に精神的苦痛を生むのである。
現在も“「日本人」なら戸籍がある
のは当たり前”という共同意識が日本
社会に根付いているのは否めない。
だが、戸籍の存在意義は何か?と
問われたら、大抵の人は答えに
窮するのではないか。

無戸籍者をめぐる報道などを見ても、
「戸籍がないと〇〇ができない」と
いう記述が目立つ。
戸籍がなければ、参政権や旅券発給
など「国民」としての権利やサービス
が保障されず、就学や婚姻もできない、
といった具合である。

実際の法制度を調べてみれば、それら
のほとんどは誤解であることがわかる。

まず参政権であるが、選挙権は、
戸籍ではなく一定の住所が行使の
要件である。
被選挙権は、立候補の際に
「日本国民」の証明として戸籍
提出が必要とされている。
旅券、住民票は、現在、無戸籍でも
条件付き(民法第772条に絡んだもの)
で交付する旨の行政指導がなされている。

婚姻、養子縁組も、無戸籍でも
可能である(ただし、戸籍筆頭者
になろうとするものが無戸籍で
ある場合は蹴籍の必要があり)。
蹴学は、戸籍・住民票に関わらず、
住所がある市区町村で就学できる。

何より重要なのは、生まれた子が
出生登録を受ける権利が保障され
ることである。
だが、戸籍法の出生届は、「非嫡出」
の記載義務や民法第772条問題など、
積極的な届出を妨げる要素が多く、
平等に出征登録を受けられるような
環境を阻んでいる。

 

 

③日本のみに生きる戸籍制度ー韓国、台湾との比較

東アジアにおいて戸籍制度が残って
いるのは、今や日本以外では、
中国と台湾くらいである。
それも日本とだいぶ異なる制度である。

韓国では、日本統治時代の朝鮮戸籍
制度を踏襲し、1960年に戸籍法が
制定された。
ただし、戸主制度や「同姓同本不婚」
の伝統的慣習も残った。
これをめぐり、男女不平等の戸主制
度廃止を求める家族法改正運動が
根強く展開された結果、2005年月に
憲法裁判所の違憲決定が出て、同年
3月に戸主制度が廃止された。
これに続いて、2007年5月に個人単位
による家族関係登録法が制定され、
2008年1月に戸籍法は廃止された。
台湾では、1931年12月に国民政府
が制定した中華民国戸籍法が現在
も施行されている。
警察的制度であったのか、1987年
の民主化を機に民事的な内容へと
変わった。
台湾の戸籍法は幾度も改正を重ねて
おり、日本よりも現実生活に対応
した弾力的な制度になっている。
特徴としては、戸籍の編製は「戸」
を単位とするが、その「戸」は個人
生活者、共同生活者、同一事業生活
者など「生活者」を基準としている
ので、日本の戸籍とはかなり異なる。

また、台湾戸籍には本籍の記載が
なくなった。
台湾における本籍は先祖の原籍を
意味し、これを基に戦後「本省人」
「外省人」の区別が発生した。
こうしたの「省籍」は台湾における
社会的亀裂の元凶とみなされ、1992年
に戸籍から本籍欄が削除された。

このように、各国の法制は変革を遂げ、
日本の戸籍法は世界でも類を見ない
ものとなっているのである。

 

 

終わりにー戸籍がなくても生きられる社会へ

戸籍は「日本人」を個人としてではなく、
あくまで「家の一員」として登録する
ものである。
個人と直接向き合う制度ではない。

だが、戸籍は「日本人」たることの
公式証明といいながら、出自の記録
を公示することで「日本人」の中に
序列や差別を再生産し、国民を重層
的に統合してきた。

民主主義は様々な差異を持つ人々を
社会の構成員として尊重するところ
に思想的な基盤がある。
「国民主権」の名の下に権力が強制
的に「同質性」を創り出そうとする時、
民主主義は崩れていくのである。
今夏の蓮舫議員の二重国籍疑惑に
対する圧力は、そうした多様性への
非寛容を思わせるものであった。

それでも戸籍を「権利」として求める
無戸籍の人々がいるのも現実である。
だが、実質的に社会で市民的権利を
共有する上で必要なのは、戸籍より
も住民票である。

今日の戸籍に求められる役割は何か。
戸籍の国民管理制度としての実効性
はとうに希薄なっている。
日本政府がなぜマイナンバー制度
を導入したかを考えてみれば、
明白だろう。
マイナンバーに戸籍情報も組み込ま
れて広範な個人情報管理が国家権力
によって構築されようとしている。
そうした現代の流れにあって戸籍
が生き続ける意義としては、実効的
な機能よりも精神的な機能という
ことになろう。
“神聖なる日本人の証し”“血の証明”
という道徳律としての役割である。

 

 

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