死んだと思っていた娘とDNA検査により69年ぶりに会った母 

コニー・ムールトループ(69)は2018年12月、米フロリダ州タンパ
で初めて実の母ジュネビーブ・ピューリントン(88)と会った。
2019年1月11日のThe Asahi Shimbun から。

 

母は、産後すぐに「娘は亡くなった」と聞かされた。
しかし、実際には南カリフォルニアの夫婦が、
ひそかに養子に迎えていた。
70年近くも続いた「死別」のベールを取り払ったのは、
DNA鑑定による血縁探しだった。

 

コニーは、バーモント州リッチモンドのマッサージ療法士。
「会ったら、すぐにお母さんだと分かった」と話す。

 

抱き合うと、母は自分をじっと見つめてこう言った。
「死んではいなかったのね」

 

2人とも、声をあげて泣いた。
「こんなにうれしいことはない」と母は言ってくれた。

 

再会は、遺伝子で家系を探るサイト「Ancestry.com」
のDNA検査をコニーが受けたことから始まった。

 

それがここまでたどり着いたことについて、著名な
遺伝子系譜学者で「The DNA Detectives(DNAの探偵たち)」
の設立者でもあるシーシー・ムーアは、
「決してまれな事例ではない」と指摘する。
「かつては悪質で冷酷な営利目的の仲介人が、
あちこちにいた。法を犯して母子を引き裂いても、
ばれはしないと信じていた」

 

 

 

 

ジュネビーブの場合は――故郷のインディアナ州
ラポートにいたときに妊娠した。
18歳。
未婚だった。
女の子なら、「マーガレット・アン」と名付ける
ことにしていた。
小児マヒを患っていた、大好きな高校の先生の名前だった。

 

コニーも、そう聞かされると、母の気持ちがよく分かった。
「なにごとにもめげない、強い子になってほしい
という願いが込められていた。
おかげでその『マーガレット・アン』は、強い子になった」
と自らを重ね合わせた。

 

1949年5月12日、出産。
同州ゲーリーの病院に、一人で入院していた。
しかし、赤ちゃんを見ることは、一度もなかった。
「女の子だったが、死んでしまった」と告げられた。
状況を問いただしたり、死亡診断書を見せるよう
求めたりすることもなかった。
「一人で出産した18歳の小娘には、思いつきようもなかった」

 

 

 

 

戦後の米国では、73年に連邦最高裁判所が妊娠中絶を
認めるまで、数え切れぬほど多くの若い女性が、
生まれた赤ちゃんと無理やり引き離されていた。
詳細は、アン・フェスラー著「The Girls Who Went Away
(いなくなった少女たち)」に描かれている。
赤ちゃんを奪い去られた女性の一人は、
「これを境に、自分の人生に紀元前と紀元後が
できたような気持ちになった」と証言している。

 

ジュネビーブは、出産した病院の名前は忘れてしまった。
コニーが入手した養子縁組の関係書類によると、
カトリック系の「St. Mary’s Mercy Hospital(聖マリア慈悲病院)」
で、今はもう存在していない。

 

この関係書類は、コニーがカリフォルニア州ロサンゼルス郡
の少年裁判所から入手した。
養子縁組を仲介したのは、出産した病院の医師となっており、
母の署名もあった。

 

確かに、ジュネビーブには、書類にサインした記憶はある。
しかし、自分が死んだり、娘を育てられなくなったりした
ときのために、あらかじめ用意する文書の類いといった
ような覚えしかなく、具体的になんの書類なのかは
まったく知らずにいた。

 

娘と再会するまで、ジュネビーブはこの世に近縁者は
もういないと思っていた。
両親と8人のきょうだいは、みな亡くなっていた。
存命の子供も、「いなかった」。

 

一方のコニーは、自分の出自については、
「友人の、そのまた友人の子」と養父母から聞かされていた。
ただ、もっと小さなときは、「病院の通路を何度も行き来して
私を見つけ、一緒に連れて帰った」と説明されたこともあった。

 

 

69年ぶりに再会を果たした
母ジュネビーブ・ピューリントンさん(88)=右=
と娘のコニー・ムールトループさん(69)
(写真/©2018 The New York Times)

 

 

そして、実母と再会した。まるで、鏡を見ているようだった。

 

「それまで、血縁者は娘1人と孫2人の3人しかいない
と思って人生を過ごしてきた。
3人とも、自分とはあまり似ていなかった。
でも、母は違った。
神秘の世界すら感じた」とコニーは振り返る。

 

母と娘は、外見が似ているだけではなかった。
二人とも料理と編み物が好きだった。
娘は、34年も看護師として働いたが、
母も看護師を夢見た時期があった。

 

その母は、結局は資格を取る高等教育を受ける機会に
恵まれなかった。
妊娠していることが目立ち始めると、高校に通うのをやめ、
出産した日に卒業証書を郵便で受け取った。
コニーの実父が結婚したことも知るようになった。

 

出産後は両親と絶縁し、1950年にフロリダに移った。
料理人になり、姉妹の一人の子供たちを育てるのを手伝った。
その間に子宮の摘出手術を受け、自分の子を授かる
ことはなかった。

 

 

 

 

「当時は、未婚で身ごもった女性や婚外子に対する
厳しい偏見があった」と養子縁組の全米組織
「National Council for Adoptions」の副会長ライアン・ハンロン
は指摘する。
だから、秘密に包まれた養子縁組が多かった。
「それが、今では逆になっている」

 

ハンロンによると、現在の養子縁組の90%以上は、
実親などの情報を開示した「開かれた縁組」だ。
制度的にも、「閉ざされた縁組」はしにくくなった。
養子になった人が、生まれたときの実際の出生関連書類
を見ることができるよう、法を改正した州が増えたからだ。

 

加えて、今回のように民間のDNA鑑定をもとに血縁関係を
調べようとする人は、今や全米で2千万人にものぼる。
出自を隠すことは、さらに難しくなった。
「きっかけは興味本位だったが、人生を変えるような
思わぬ結果にたどり着いた人も多い」と先の遺伝子系譜学者
ムーアは語る。

 

コニーは、19年1月に2人の異母妹とペンシルベニア州
ポコノで会うことにしている。
今度は、実父の娘たちだ。

 

「今からドキドキして、もう大変。
だって、きょうだいがいたことは、
これまで一度もなかったのだから」(抄訳)

 

(Christina Caron)©2018 The New York Times

 

 

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