戸籍続柄裁判に寄せて 澤田省三(志学館大学法学部教授)(「Voice」106号 2002.2) 戸籍4  

昨年11月22日戸籍続柄表記訂正等請求の
訴えが東京地裁に提起された。(略)

住民票続柄裁判に続いての訴え提起となるが、
淡々としたお話の節々に見られた静かな闘士
に深い敬意を抱きつつしかしその裏には
「至極当然の主張をすることになぜこれだけ
のエネルギーと時間をかけなければならない
のか」という忸怩たる想いもお持ちであろう
と推測していた。

この裁判で原告が主張されている請求の正当性
(とりわけ嫡出子と嫡出でない子との区別記載
の不当性)とその根拠は「訴状」にすべて網羅
されているといってよい。

公平にみてこの主張を退ける理由を見いだす
ことは今日ではかなり困難であるように思われる。

その理由は訴状に明らかにされているので
同じことをここでくり返すことは無用の
ことであろう。

今回の訴えは民事訴訟として人格権に基づく
差し止め請求という形をとられていることも
一つの特徴であろう。

住民票続き柄裁判での経験を活かして
おられるのであろうと推測する。
いずれにしても裁判の展開に注目したい。

「続柄」を戸籍に記載する意義は少なくとも
実体法レベルの問題では最早存在したいことは
ほぼ異論のないところではなかろうか。

「法の建前としては、長男でも次男でも何にも
区別のないのが原則なのに、戸籍の上で何とか
書こうとすることが、何より問題なんだ」

(唄孝一『戸籍1・出生』戸籍セミナー(1)
・青木義人他ジュリスト選書・有斐閣394頁)、
「戸籍が本来法律で要求されていないことまで
問題を自分に抱え込んでいるようなものだと思う」
(青木義人・前出396頁)という指摘は
正鵠を得ているように思われる。

むしろ実態法との関連でいうなら
必要な公示は「性別」の方であろう。

「本来からいえば戸籍法では性別を明らかに
しろということをまともに規定しておいて
然るべきですが…」
(青木義人・前出399頁)、それを「続柄」
の表示で兼ねたというところが本末転倒で
あったということであろう。

現行の嫡出でない子についての続柄欄表示の
「女(男)」はどのような意味でも特定の人
との関係における「続柄」表示ではありえない。
融通無碍もいいところではないか。

なぜこのような不合理な扱いが改善されない
ままに時が過ぎていくのであろうか。

それは結局のところ1996年2月に取りまとめ
られた「民法改正法律案要綱」(法制審議会答申)
に基づく法改正が棚上げされて一向に実現しない
ということに帰着するように思われる。

この要請では選択的夫婦別氏制の採用等の問題
とともに「嫡出子」と「嫡出でない子」の法定
相続分を同等とする問題も含まれている。

1996年2月3日読売新聞夕刊の記事によれば、
「嫡出・非嫡出子の記載 戸籍上も区別廃止
法務省方針」と題する報道がなされている。

これは前記の相続分に関する改正が実現すると
従来区別記載の理由としていた唯一の根拠が
なくなることを前提にした措置(方針)で
あることは明らかであろう。

しかりとすればこの法改正が速やかに成立
していれば少なくとも今回の裁判における
区別記載の差し止め請求は不要であった
ともいえるのである。

ところが政府・自民党はなお世論の動向を
見守る必要がある(正当な理由のない時に
使われる常套手段であり、逆に真に世論の
動向を見極める必要のある時は一顧だに
しない)などを根拠に棚上げして全く熱意
を示さない。

ところが、こうした人権に関わるしかも
国際的にも批判を浴びている問題に全く
無関心かと思うとそうでもないらしい。

同じ政府が「男女共同参画社会基本法」
という少なくとも内容的には意味ある
法律を成立させているのである。

しかしこの法律の理念に即して考える
なら前記の民法改正など真っ先に成立
させてこそ初めて評価できると思うのだが
「それとこれとは別」というのが真相の
ようである。

同じ政府・与党の意思が明らかに
矛盾しているのである。

しかし問題の本質はそのような民法改正
という事実を待たずとも改革は可能で
あるということである。

民法に手を付けることなく改革は
十分に可能かつ必要なのである。

振り返ってみれば住民票続き柄裁判
は1988年5月に提訴された。

最高裁で決着したのが1999年1月であった。
実に10年余の歳月を要している。

その間東京高裁判決(1995年3月22日)
の直前の1995年3月1日から自治省は
従来の態度を改めて住民票の続柄欄の子
の記載については、全て「子」と統一
記載する扱いとしてのである。

しかし、この態度変更は住民票続き柄裁判
のもたらした成果であることは否定できな
い事実であろう。

もし住民票続き柄裁判の提起がなかった
としたら果たしてこのような結果を見て
いただろうか。
疑問であろう。

今回の戸籍続柄裁判の提起を見てこの裁判が
住民票続き側裁判と同じような経過を辿るの
ではないかという危惧をもっている。

決してそうではない早期の明快な判断による
決着と速やかな戸籍上の是正措置の実現を
期待したい。

正義とか公正とか公平という民主主義社会
の基本を支えるキーワードがほとんど死語
になりつつある社会はとても健全である
などとはいえない。

同様に人間として生きる基本な権利として
万人に等しく保障されている「人権」の
実現が常に被害者である少数派に属する
人々の必死の闘いによってしか達せられ
ないとしたら何と寂しい社会であろうか。

21世紀を指呼の間にして私たち
一人一人の生き方が問われている。

戸籍続柄裁判もそのような視点で見守って
いきたいと念じている。
      (2000年1月8日)

 

 

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